2021年1月31日 礼拝説教「この世での神の民」

聖書: 創世記  47章1~12節

Ⅰ.はじめに

 先週の1週間は、どのような日々だったでしょうか?主日礼拝式は教会の礼拝堂で続けられておりますが、集まってお互いの顔と顔とを合わせることができず、とてもさびしく思います。お互いに集まることはできませんが、同じ神様の家族として、お互いのことを覚えて祈り合い、神様のみことばである『聖書』を読み、神様の民として養われ、強められたいと願います。この日本で、イエス様を信じる人は100人に1人と言われるほど少ないのが現実です。そのような中でイエス様を信じる私たちは、「クリスチャンらしく振舞って証しをしなければならない」と気負ってしまうかもしれませんし、「クリスチャンであることを意識せず、その場の雰囲気に合わせよう」として流されてしまうかもしれません。そのどちらにしても、神様が自分を通して働かれるのを妨げてしまうのではないでしょうか。イエス様を信じて神様の子どもとされ、神様の家族、神様の民とされた私たちは、この世でどのように過ごしていったらよいのでしょうか?

 私たちの教会は2004年から「創世記」を礼拝で少しずつお聴きしています。この「創世記」は、世界と人間の創造、罪の始まり、ノアの箱舟などの出来事を語り、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフというイスラエルの民、神様の家族の原型とも言えるような神様の民の先祖の人生を詳しく記しています。今日は先々週1月17日にお聴きしたところの続きから、神様のみことばに共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.寄留者として(創世記 47章1~6節)

 神様がご自分の民とするとお選びになったアブラハムの子孫、アブラハムの孫であるヤコブという人の一族70人が、現在の中東のイスラエル周辺、当時カナンと呼ばれた所から、エジプトへ移住して来たことを、私たちは先々週、46章から共に見ました。なぜ、移住したかと言えば、当時、カナンもエジプトも大飢饉となり、不思議な神様の導きでエジプトの総理大臣になっていたヤコブの息子の一人ヨセフが事前に食糧をたくさん貯えさせていたのでエジプトには食糧があったからです。そのヨセフと父ヤコブとが22年ぶりの再会を果たしたことも46章には記されています。

 ヨセフは自分の父と兄たちが来たことを、エジプトの王ファラオにどのように話したでしょうか?1節を読みましょう。ヨセフは兄弟の中から5人を連れて、王様ファラオに引き合わせます。王様に職業を聞かれて「しもべどもは羊を飼う者で、私どもも、私どもの先祖もそうでございます」(3節)と答えます。自分たちは「あなたのしもべ」と謙虚な姿勢で、先祖からずっと羊飼いであり、仕事を変えるのが困難なことを印象付けたのでした。ヨセフの兄弟たちは住む場所についてどのように願い出たのでしょうか?4節を読みましょう。「この地に寄留しようとして」(4節)と言いました。一時的に住まわせてくださいと願い出たのです。今の私たちも、神様の民として、この世に寄留者であり、旅人として生活していることを思い起こすことができます(へブル11:13)。私たちは天の故郷に向かって歩む寄留者、旅人として、この世を旅しております。

 ファラオは彼らの願いにどう答えたか?兄弟たちに直接答えず、ヨセフに答えていることは王様の威厳を表わしています。5~6節を見ましょう。彼らは最も良い地に、願う通りゴシェンの地に住むことが許されました。それだけでなく、彼らの有能な者が王様の家畜の係長に登用されることにもなりました。ゴシェンの地は王様の家畜も飼われているような、とても良い地であることもわかります。とても良い地ですが寄留者として彼らはエジプトに住みます。私たち神の民もこの世がすべてでなく、寄留者として過ごすのです。

2.祝福を祈る者として(創世記 47章7~12節)

 ヨセフはこのあと父ヤコブをファラオの前に連れてきます。その時、ヤコブはどうしたでしょうか?7節を読みましょう。ヤコブはエジプトの王様を祝福したのです。これは、神様の守りと祝福がファラオにあるようにとお祈りしたということです。この表現はもう一度、10節にも出てきます。二度も繰り返されているということは、この行動が強調されているということではないでしょうか。つまり、ヤコブは神様の民の長として、ファラオのために、神様の御守りと祝福を祈ることによって、自分をこれまで導いてくださった神様の存在をほのめかし、指し示し、神様の民としての使命を、この時、果たしたのです。

 私には今も忘れられない出来事があります。子どもが小学生の時、PTAの副会長をさせていただいておりました。牧師であることは伝え、日曜日のPTAの活動には参加できないことも理解していただいた上でお引き受けしていました。と言っても一緒に活動する方々に『聖書』の話や信仰のことを私から話すことはありませんでした。ある時、学校の先生や保護者の方がご病気などで召されるご不幸が続いたことがありました。その時、PTA会長は私に、不幸がこれ以上続かないように、この地域が守られるように、小学校でお祈りしてほしいとお願いされたのです。私は牧師としてガウンを着て、小学校のある部屋で『聖書』を読み、お祈りしました。PTA役員だけでなく、校長や教頭先生、ほかの先生方もおられました。公立の小学校で、このような機会が向こうから与えられたことを不思議だなあと思い、感謝しています。この世に生かされている神様の民である私たちにできることは、身近な人々のために神様の守りや祝福をお祈りすることではないでしょうか。

 さて、ファラオとヤコブの問答は興味深いものです。8節を読みましょう。ヤコブはどう答えたか?彼は自分が神様を信じ、神様に導かれてきたことを誇らず、いわゆるご利益をも語りませんでした。9節を読みましょう。実に正直で、謙虚な答えではないでしょうか。ヤコブは若い日に、兄エサウへの祝福を奪い、兄から逃げ、おじの家で苦労し、結婚後は子どもたちのことで、特に愛していたヨセフが獣に殺されたと思い込まされるなど、いろいろなわざわいの連続であったことを素直に語ったのでした。私たちが気負って語るかもしれない一代記のような証しではなく、短いことばで自らのこれまでをさらっと語り、そして、「ファラオを祝福し」(10節)、神様の守りと祝福を祈り、その場を立ち去ったのでした。ファラオにとって、この父ヤコブの存在は印象に残ったのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 このヤコブの子孫としてイエス様は約2021年前にお生まれになりました。イエス様は、 私たちひとりひとりの罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、墓に葬られ、3日目に死から復活されました。イエス様を救い主と信じることによって、今の私たちも神様の子ども、神様の家族、神様の民とされ、天の都を目指してこの世に生かされています。私たちもこの世での神の民として、気負わず、誇らず、率直に自分として人々と接し、悩みや苦労の多い自分と共にいてくださる神様の存在がほのめかされるような、神様の存在が印象として残るようなあり方、過ごし方をさせていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)