2024年4月28日 礼拝説教 「神の栄光をあらわす」

聖書: ヨハネの福音書 21章15~19節

Ⅰ.はじめに

 新年度が始まって1ヶ月が過ぎようとしています。進級・進学、就職・転職・転居など新しいスタートを切った人もあるでしょう。仕事の内容や職場での担当が変わり、多少なりとも環境が変わったという人もあるかもしれません。私たちの人生のさまざまな節目で、これまでに「誓約書」を書くとか、「誓いの約束」をしたことはあるでしょうか。進学においては学校の規則に従うことや授業料を払う「誓約書」があるでしょうし、病院への入院の際にも同じような書類があります。結婚式では「健やかな時も病む時も、この人を愛することを誓いますか」と問われます。あそこで「いいえ」と言った人を私は知りません。しかし、年を重ねるごとに、「はい」と誓うことの責任や重みを実感します。

 先週の「主の日」に聴いた『聖書』の箇所の続きをお聴きしました。「誓約」にも似たイエス様と弟子のペテロの問答が、今の私たちとどんな関係があるのか思い巡らしましょう。

Ⅱ.みことば

1.わたしを愛しているか(ヨハネの福音書 21章15~17節)

 今から約2000年前、中東イスラエルのガリラヤ湖畔で、イエス様と弟子たちが朝の食事を終えると、イエス様は弟子のひとりペテロに言われました。こっそりではなく、共にいた6人の弟子にも聞こえるように問いかけられたのでしょう。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」(15節)。「この人たちが愛する以上に」ということばに、ペテロはかつて「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29)と言ったのに、そのあとイエス様を知らないと否定してしまったことを思い出したのではないでしょうか。ペテロはイエス様のこのことばによって、他の人と自分を比べたり競争したりするような、自意識過剰な面があるか、探られたかもしれません。ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)と答えます。彼は「あなたを裏切った私には力も自信もありませんが、あなたへの小さな精一杯の愛を、あなたはご存じです」と言いたかったのではないでしょうか。イエス様からの愛に、お応えする自分の愛の貧しさを、イエス様にゆだねたと言えるでしょうか。

 イエス様は再び「あなたはわたしを愛していますか」(16節)とペテロに言われます。イエス様は「わたしをどれだけ知っているか」とか「わたしのために何ができるか」ではなく、「わたしを愛しているか」と私たちにも問われます。あらゆる知識も、山を動かすほどの信仰も、イエス様のために自分を犠牲にしても、多額の献金も、愛がなければ無益です。

 イエス様は3度目に「わたしを愛していますか」(17節)とペテロに言われます。ペテロが「心を痛め」(17節)たのは、少し前に「あなたはイエスの弟子のひとりでしょ?」と聞かれた時に、「イエスなんて知らない」と3回も言ってしまったからでしょう。その時のイエス様がどんなに心を痛めたか、ペテロは思い巡らしたのではないでしょうか。

 イエス様の3度の問い、それはペテロの3度の裏切りに対する赦しと立ち直りの機会となったと言えるでしょう。彼は「自分には愛する資格がない」とは言いませんでした。そのように言うことは謙虚に見えますが、資格の有無を自分で決める傲慢です。イエス様は今の私たちにも、様々な場面で「わたしを愛していますか」と問いかけてくださいます。

2.わたしの羊を飼いなさい(ヨハネの福音書 21章15~17節)

 イエス様は3回ペテロに問いかけ、彼が3回答えたそれぞれの時に、「わたしの子羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。「子羊を飼う」「羊を牧する」「羊を飼う」とニュアンスの違いはありますが、ほぼ同じ意味のようです。重要なのは「わたしの羊」と言われたことです。イエス様は、ご自分の羊として愛している人々に関心をもち、配慮し、必要に応えていくことを,ペテロに任せたのでした。

 今の私たちもイエス様の愛にこたえて、乏しくとも精一杯の愛でイエス様を愛しているときに、家族親族、知人友人など身近な人々への愛の配慮や、牧者であるイエス様を紹介することなどを、イエス様のお手伝いとしてさせていただけるのではないでしょうか。

3.望まないところに(ヨハネの福音書 21章18~19節)

 このあとイエス様はペテロに何を言われたか。18節をお読みします。「若いとき」とは、イエス様と出会う前、弟子とされてイエス様について来たこの約3年間も含まれているでしょう。今の私たちにとって、この「若いとき」とは、イエス様を信じる前とか洗礼を受ける前のことではないでしょうか。そのときには自分の望むことをまず優先していました。

 「年をとると」とはペテロにとって、イエス様を愛していくこれからの生活のことでしょう。今の私たちにとって、それはイエス様を信じ洗礼を受けてからの生活を指しているのではないでしょうか。もちろん、自分の望むことができないとか自由がなくなるわけではありません。ただ、イエス様を愛するときには、自分が望むことだけでなく、イエス様が望むことをしたいと願うようになり、優先順位が変わっていくのではないでしょうか。

 それは、「望まないところに」(18節)連れて行かれるようなことかもしれません。自分が以前はしようとは思わず、得意ではないことに、行きたくない所へ導かれるかもしれません。子どものころの私は、人前に立つと緊張で真っ赤になり、話せませんでした。イエス様を信じ、牧師として召し出されて、今このように導かれていることは不思議です。自分の世界が、思いがけず広げられてきた感じがします。すべては神様の恵みです。

 イエス様がこう言われたのは「ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すため」(19節)だったとあります。「神の栄光を現す死に方」って何だろう、と私は今回深く思いを巡らしました。ペテロの場合には、殉教の死だったようです。伝説では「逆さ十字架」だったと言われています。ペテロなりに精一杯イエス様を愛し、イエス様の羊の世話をした、その延長線上にあったのが、彼の場合は殉教の死だったのではないか。今の私たちにとってはどうか?「死に方」と言っても、寝付かずにぽっくりとか、病気か老衰かとか、そういうことではないように思います。その人の「死に方」とは「生き方」と切り離せないのではないか。その意味で私の地上での人生がどのように終わるにせよ、「彼はイエス様の羊として彼なりに精一杯イエス様を愛しイエス様の羊を愛して生きたんだね。彼をそのように導かれた神様というお方はすばらしいね」と言われたい。そう祈り願います。

Ⅲ.むすび

 イエス様は私たちひとりひとりを愛し、十字架で死んでくださり、3日目に復活され「わたしを愛しているか」と問いかけてくださいます。洗礼式での誓約、「あなたは、慎んで神のみ旨と戒めを守り、生涯それらに従って歩みますか」「神の御助け(みたすけ)によって歩みます」という誓いを思い起こしていただきたい。イエス様の愛にこたえて、イエス様を愛し、私たちの存在によって、神の栄光が現わされますように。

(記:牧師 小暮智久)