2024年4月14日 礼拝説教 「信じる者に」

聖書: ヨハネの福音書 20章24~31節

Ⅰ.はじめに

 何を信じるか、何を疑うか、それをどう判断するか、がむずかしい世の中になってきているのではないでしょうか。オレオレ詐欺や還付金詐欺の被害にあう人が多くいます。困っている身内を助けたいとか、少しでも得をしたいという気持ちにつけ込む詐欺には警戒しなければなりません。一方で私たちは、ほんとうに信じることができるもの、自分の将来を保証してくれるものを求めているのではないでしょうか。そのためには、自分で納得するため、よく調べて確かめたいと考えるのは当然でしょう。世界のベストセラーと言われる『聖書』、その『聖書』の時代の人々は、何でも疑わず、何でも信じたのでしょうか。それとも、今の私たちと同じように、自分で確かめて、納得しなければ信じないという人もいたのでしょうか。さきほど読まれた『聖書』の場面を、ともに思い巡らしましょう。

Ⅱ.みことば

1.信じない人(ヨハネの福音書 20章24~25節)

 時代は今から約2000年前、西暦で言えば1世紀の前半、西暦30年ごろ、場所は西アジアのユダヤ地方です。24節をお読みします。「イエスが来られたとき」(24節)というのは、すぐ前の段落(19~23節)に書かれているときのことです。つまり、それは、イエス様が金曜日に十字架で死なれてお墓に葬られて3日目、当時は「週の初めの日」(19節)と呼ばれていた日、今で言えば、日曜日です。なんと!イエス様は死から復活し、弟子たちが集まっていた家に来られ、彼らの真ん中に立ち、手と脇腹をお見せになったのです。弟子たちは、そのお方が確かに3日前、手を太い釘で十字架に打ち付けられ、死んだのちに脇腹を槍で突き刺されたイエス様だとわかり、その復活を喜んだのでした。

 その日曜日に「彼らと一緒にいなかった」(24節)人がいます。トマスという人です。なぜ一緒にいなかったのか、わかりません。しかし、トマスはいなかった、それで彼だけが復活したイエス様に会えなかったというのは確かです。この時から日曜日ごとに弟子たちは集まるようになります。日曜日はイエス様の復活の記念日だからです。それは2000年たった今も続き、私たちは日曜日に集まり共に神様を礼拝します。そこに一緒にいないとしたら、復活されたイエス様と会えなかったトマスのように、大きな損失ではないでしょうか。今ではオンラインによる礼拝という選択肢も増えましたが、実際に出席する礼拝の臨場感や同じ教会の人と顔を合わせ、触れ合え得る親しさにまさるものがあるでしょうか。

 25節をお読みします。トマスは自分で確かめなければ決して信じないと言いました。イエス様の弟子なのに信じない。疑っている。それでも弟子なのです。信じるから弟子であるはずなのに、信じない。矛盾のようですが、これが人間の現実ではないでしょうか。ほかの10人の弟子も最初はイエス様の復活を信じませんでしたから(ルカ24:11)、トマスをさばけないでしょう。『聖書』に記されている人々はマインドコントロールされていたのでなく、彼らには信じない自由、疑う自由、自分で考えて確かめる自由があったのです。

2.信じない人への招き(ヨハネの福音書 20章26~29節)

 「八日後」(26節)とは翌週の日曜日。弟子たちは再び集まっていました。日曜日ごとに集まるという今も続く生活のリズムは、このようにして始まったのです。今度はトマスも一緒です。26節をお読みします。復活されたイエス様が再び来られたのは、だれのためでしょうか?27節をお読みします。それは、信じない人のためです。決して信じないと言ったトマスのためです。イエス様は、トマスが手の釘あとを確かめ、脇腹の傷に手を入れてみなければ信じないと言ったことをご存じだったのです。しかも、信じない人を拒まず、弟子として破門にしませんでした。むしろ、トマスのことば、その奥にある疑いや彼の気持ちを理解し、尊重されたのです。そして、確かめてごらん、と招いてくださったのです。

 イエス様の招きの中心にあるのは何か?「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。単に「信じないのではなく、信じなさい」と招いたのではなかったのです。この違いは何かなあと、私は今回思いめぐらしてみました。「信じなさい」と「信じる者になりなさい」の違いは何か?「信じるか、信じないか」は、自分の頭での納得とか同意という面が強いのではないでしょうか。たとえば、UFOやネス湖のネッシーの存在を信じるか信じないかというのは、納得や同意をするかどうかということでしょう。一方、「信じる者になるか、ならないか」は納得や同意も含まれますが、自分の存在に深く関わり、自分の態度や生活が変わるという面が強いのではないでしょうか。信頼する相手に自分を任せ預けていく、その相手に導かれることをよしとする人になるということでしょう。

 イエス様の招きの前で、トマスは自由でした。彼は招きを拒むこともできたし、手を脇腹の傷に入れることもできた。彼はそのどちらもせず、イエス様を「私の主、私の神よ」(28節)と呼んだのです。彼は目の前のお方が復活されたイエス様だと納得、同意しただけではありません。トマスはイエス様を、自分が導かれることをよしとする「主」であり、自分を任せ預けていく「神」であると信頼する者となったのです。

 イエス様は「見ないで信じる人たちは幸い」(29節)と言われます。これは見て信じたトマスを責めるというよりは、このあとイエス様が天に帰られて以後、今に至るまで、そして、これからも、イエス様を直接見ずに信じる人々の祝福を強調しているようです。

3.すべての人への招き(ヨハネの福音書 20章30~31節)

 この福音書にはイエス様が行なわれたしるしや奇跡のすべてが書かれているわけではありません。しかし、次の目的のためには充分なことが書かれているのです。31節をお読みします。その目的とは、イエス様が神の子キリストであると信じるため、信じて、イエス様の名前によって、すなわち権威によって、いのちを、永遠のいのちを、神様とのつながり、交わりを得るためです。しかも、イエス様をキリスト(救い主)と信じておしまい、ではない。信じた人には永遠のいのちが与えられる。「いのち」とはゴールではない。生かされて、生きていくことです。永遠のいのちが与えられた。それは始まりです。神様とのつながり・交わりが与えられた。それは始まりです。すべての人への招きがここにあります。

Ⅲ.むすび

 私たちは皆、神様によって造られ生かされているにもかかわらず、「神様を信じる者」「神様に自分を預け、導かれることをよしとする者」ではありませんでした。そのように神様を排除していた私たちのために、イエス様が十字架で死なれ、葬られ、3日目に復活され、神様との和解の道が備えられたのです。イエス様を救い主と信じ受け入れましょう。その人には神様との和解と交わりである永遠のいのちが与えられます。

(記:牧師 小暮智久)