2024年3月10日 礼拝説教 「イエス様の孤独」

聖書: マルコの福音書 14章32~42節

Ⅰ.はじめに

 私たちの今の悩みは何でしょうか?年齢によっても、生活の状況によっても違うだろうと思います。ある人は学校や職場の人との関わり方が悩みかもしれません。また、ある人は自分の身体の痛みや不調、この先の生活が不安であるかもしれません。さらに、ある人は過去の自分がしてしまったこと、あるいは、しなかったことを悔やんでいるかもしれません。いずれにせよ、その悩みの奥で感じている自分の感情、こわいとか、悲しいとか、さびしいとか、つらいなどの自分の気持ちに気づくことは大切だと思います。先週、なぜか私の心に留まった奥 華子さんというシンガーソングライターの「迷路」という歌の歌詞を紹介します。 「私にとっては ただのゴミにしか見えない紙切れでも 誰かにとっては大切なお守りかもしれない  尖った言葉のナイフで 平気で人を傷つけて 見て見ぬふりをしている 『友達』という名前の人  迷路の出口を見つけても またそこは迷路の入口で 自分だけ置き去りにされそうで 暗闇の中もがいていた  たった一人でいいから 私の味方がほしかった ずっと心に抱えた 私の声を聞いてほしい」 率直で切実な叫びだなあと感じます。人とどう関わるか、自分とどう関わるか、が私たちの悩みの中心でしょうか?イエス様というお方は、私たちの悩みとどう関係があるのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.私たちの悩みとイエス様(マルコの福音書 14章32~36節)

 神様のことばである『聖書』が示しているイエス様というお方は、悩みを経験されたのでしょうか?また、悲しみとか、恐れや不安などの感情はあったのでしょうか?

 先ほどお読みいただいた『聖書』の場面は、今から約2000年前の西アジアのユダヤ地方、エルサレムという町の城壁の外にあったゲツセマネという場所での出来事です。イエス様と共にいた11人の弟子たちはまだピンと来ていなかったかもしれませんが、イエス様にとっては翌日、十字架刑によって死刑にされるとわかっていた前の日の夜です。イエス様は弟子たちに何を言ったか?32節をお読みします。イエス様はお祈りしようとしておられました。『聖書』が言う「お祈り」とはお願いだけでなく、神様とお話することです。

 さらに、イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネの3人の弟子を一緒に連れて行かれました。先週、ともにお聴きした、山でイエス様のお姿が輝いた場面と似ていますね。今回の場面のイエス様はどうだったか?33節をお読みします。「深くなやみ、もだえ始め」とあります。イエス様は神の御子であられるのに、深く悩まれたのです。ならば、私たちが様々なことで悩み苦しむとき、その悩みや苦しみのつらさも、イエス様はわかってくださるのではないでしょうか。この時のイエス様の感情はどうでしょうか?「悲しみのあまり死ぬほどです」(34節)とあります。私たちにも、悲しみのあまり死ぬほどという時があるかもしれません。イエス様は私たちのそんな気持ちをわかってくださいます。この時のイエス様の悲しみとは何でしょうか?それは、罪の全くないご自分が、私たちすべての人の罪の身代わりに十字架刑によって死刑にされるという悲しみだったのではないでしょうか。

 イエス様は、ご自分が十字架にかけられる以外に全人類が救われる道があるなら、どうか十字架という道だけは避けさせてくださいと、父なる神様にお話しになりました(35節)。明日、十字架にかかるという前の晩に、そんなことをお祈りしていいのかなと、私なら思いますが、イエス様はご自分の本音とその感情を、そのまま天の父にお話ししています。36節をお読みします。「アバ」とはイエス様やペテロたちが当時日常使っていたアラム語で「父」「お父さん」という意味です。当時の人々は「神様」を「父」とは呼びかけず、「主」と呼ぶことが多かったと思いますが、イエス様は神様を「父よ」と親しく呼びかけたのです。しかも、「この杯」が意味する「十字架」を取り去ってくださいと率直に言われました。ここに、イエス様の悩み、悲しみ、恐れ、不安などが凝縮されているように思います。

 私たちも自分の悩みや恐れ、弱さや疑いなどを天の父である神様にお話ししてよい。自分の悩みや弱さを神様に全部注ぎ出して、その上ではじめて「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」(36節)と祈れるのではないでしょうか。

2.私たちの孤独とイエス様(マルコの福音書 14章37~42節)

 私たちが孤独や寂しさを感じるのは、どんな時でしょうか?どんなに大ぜいの人に囲まれていても、自分をわかってくれる味方がいない時、孤独を感じるかもしれません。

 イエス様はご自分の深い悩みや苦しみを、天の父に打ち明けてお話しし、3人の弟子の所に戻ります。すると、彼らは眠っていたのです(37節)。これほど大事な時に、ペテロもヨハネもわかってくれない。イエス様はこの時、孤独を感じられたのではないでしょうか。

 小学3,4年生の頃、私は学校でつらいを思いをしました。誰かに筆箱を隠されてやっと見つけたら、今度は体操着を窓から外へ投げられるのです。私は先天性の尿道の障害があり、トイレは個室で座ってしかできないのですが、上からのぞかれたり、ホースで水をかけられたりしました。何がつらかったか?それは孤独だったように思います。学校に行けなくなり、親が対応してくれてなんとか学校に戻った時、学級委員で正義感の強い女の子がみんなの前で言ってくれたことばは今でも忘れられません。「小暮くんをいじめたら、私がゆるさないから」。味方になってくれる人がいることがうれしかったです。

 イエス様は同じお祈りを3度して、3回とも弟子たちは眠っていたようです。ここで一つの疑問がわいてきます。弟子たちがみな眠っていたのなら、誰がこの場面を、特にイエス様の祈りのことばを、『聖書』に書けたのか?この「マルコの福音書」はマルコという人が弟子のペテロから聞いて、聖霊である神様に導かれて書いたと言われています。でも、そのペテロもこの時、眠っていた。私の推測はこうです。イエス様ご自身が復活後に、ペテロにこのときのことをお話しになったのではないか。イエス様は、ご自分の生涯の中で、最も悩み苦しみ恐れて、最も弱々しく見える時のことを、弟子に話さなくてもよかったのに、あえてペテロや弟子たちに話されたのではないか。「この杯をわたしから取り去ってください」と祈った事実を、ご自分から弟子たちにお話しになったのではないだろうか。

 41~42節をお読みします。このあと、イエス様は、十字架へと、究極の孤独へと向かって行かれます。

Ⅲ.むすび

 イエス様は、私たちの悩みや孤独感をわかってくださるお方です。なぜなら、ご自分も悩みや孤独を経験されたからです。イエス様こそが、神様に対する私たちひとりひとりの罪を背負って十字架で死んでくださり、3日目に復活された唯一の救い主です。イエス様を救い主と信じ、神様と和解させていただきましょう。神様が自分の味方となってくださる新しい日々が始まります。ヘブル4:15~16 をお読みします。

(記:牧師 小暮智久)