2024年3月3日 礼拝説教 「輝くイエス様」

聖書: ルカの福音書 9章28~36節

Ⅰ.はじめに

 ふだんはふつうのおじいさん。しかし、ここぞという時には助さんと格さんが印ろうを手にして「このお方をどなたと心得る?」と言った時に、そのおじいさんが正体を現わすのは「水戸黄門」。今日の『聖書』の場面も、それと少しだけ似ているでしょうか。

 この教会の礼拝では2017年5月から『聖書』の「ルカの福音書」を少しずつお聴きし、今日は昨年9月17日の続きの所です。ずいぶん久しぶりですが、「受難節(レント)」という十字架に向かわれるイエス様に心を向ける今の季節に、今日の『聖書』の箇所をお聴きできるのは意味深いと思います。私は、イエス様の地上でのご生涯で、その誕生(クリスマスとして祝います)とか、十字架とか、復活(イースターとして祝います)などはその意味や目的を何度も聞いてきましたが、イエス様が光り輝いたという今日の場面については、なぜ、何のために、この出来事があったのか、あまり聞いたことがないように思うのです。イエス様のお姿が変わった「変貌」という出来事は、何のためだったのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.光り輝くイエス様(ルカの福音書 9章28~31節)

 「これらのこと」(28節)とは何か?それは、すぐ前の18~27節に書かれていることです。イエス様は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と聞き、弟子のペテロが「神のキリストです」と答えました(20節)。イエス様は、キリストは苦しみを受け、人々に捨てられ、殺され、3日目によみがえることと、キリストを信じてついて行きたいなら、キリストと同じように自分の十字架を背負い、従いなさいと言われました(22~23節)。キリストの受難予告と、キリスト者(クリスチャン)の苦難や殉教の予告です。

 それから8日ほど過ぎ、イエス様はペテロとヨハネとヤコブという3人の弟子だけ連れて山に登られます。何のためか?「祈るため」(28節)と書かれています。ルカの福音書にはイエス様がお祈りしている場面がよく出てきます(9:18,11:1など)。イエス様は何を祈られたのでしょうか?ご自分のため、弟子たちのため、祈られたのではないでしょうか。

 祈っておられると、何が起きたのか?29~31節をお読みします。これは、イエス様のお祈りに対する天のお父様のお答えだったのではないでしょうか。そのお答えは2つです。

 (1)イエス様が光り輝いた。「御顔の様子が変わり」「衣は白く光り輝いた」。イエス様のお顔がいつもと変わって光り輝き(マタイ17:2)、その衣もまぶしいほどに光り輝いたのです。イエス様が私たちと同じ人間であると同時に、神様の御子であることが示されたのです。

 (2)モーセとエリヤが現われてイエス様と語り合った。モーセは「律法」の代表、エリヤは「預言者」の代表です。つまり、「旧約聖書」の代表者2人です。モーセは生前、約束の地に入れませんでしたが、この時、念願の約束の地に立ったのでした。二人がイエス様と語り合ったことは何か?「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(31節)です。しかも、モーセとエリヤという「旧約聖書」の代表者が現われ、イエスの「最期」が「旧約聖書」の約束の成就・実現であることが示されたのです。この「最期」とは「出発」「出エジプト」とも訳せることばで、イエス様の十字架・復活・現われ・昇天、つまり私たちのための「救いの完成」を指しています。今の私たちにとって、この2人の現われは、人は死んだらどうなるかということの証拠でもあるのではないでしょうか。人は死んだら火葬されてなくなってしまうのではなく、その存在は神様のもとにあり続けます。弟子たちが初対面でもモーセとエリヤだとわかる姿で現われたのです。

 この出来事は、イエス様が神様の御子であるという栄光のお姿と、キリストとはどんなお方でこれから何をするのかというその使命を、弟子たちに示したのではないでしょうか。

2.ペテロの発言と天からの声(ルカの福音書 9章32~36節)

 この不思議な出来事は、弟子たちのためであったと思われますが、見ていた3人の弟子たちは、どうしていたでしょうか?32節をお読みします。彼らは眠くてたまらなかった。彼らが山を下ったのが「次の日」(37節)だったことから、この出来事が起きたのは夜ではないかと考える人もおり、眠いのは当然だったかもしれません。しかし、彼らははっきり目が覚めると、光り輝くイエス様とモーセとエリヤを見たのでした。ペテロが、わけのわからないことを言ってしまうのは(33節)、彼の驚きと当惑の現われでしょう。

 ペテロが思わず、イエス様とモーセとエリヤを、あたかも同列に置いてしまうような言い方をしたことに対するかのように、雲の中から声がします。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」(35節)。以前の「新改訳 第3版」では「わたしの愛する子」と翻訳されていますが、原本を写した写本による証拠では「わたしの選んだ子」という翻訳の方が確かなようです。ここで天の父なる神様は、モーセもエリヤもふつうの人間だが、このイエスは「わたしの子」、しかも特別な使命のために「選んだ子」だと弟子たちに言われたのです。この声がした時、3人の弟子たちが見たのは何か?36節をお読みします。「そこに見えたのはイエスだけであった」(36節)。モーセもエリヤもいませんでした。そこにおられたのはイエスだけ。先ほどの声を聞いた弟子たちは、今までよりもさらに深く、目の前のイエス様が「神の御子(みこ)」なのだと実感したのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 今日ともにお聴きした山での不思議な出来事をどう思いますか?なぜ、弟子12人全員ではなく、3人だけだったのだろうか。イエス様が光り輝いた(外からの光を反射したのではなく、イエス様ご自身が光を発したようです)というその光は、いったいどんな光だったのだろうか。などなど、いろいろな疑問がわいてくるかもしれません。ただ私たちは、イエス様は3人の弟子たちに何を示したかったのか、天の父なる神様の御声は何を示しているのか、ということに集中したいと思います。

 ペテロ、ヨハネ、ヤコブはこのあと、いつも接しているイエス様が、ただ人であるだけでなく、神様の御子であると深く覚えたに違いありません。イエス様は「エルサレムで遂げようとしておられる最期」(31節)に向かって、進んでいかれる。弟子たちも、一度はイエス様を見捨てて逃げてしまいますが、イエス様の復活ののちには、イエス様のあとに従い、ある者たちは殉教の死を遂げ、ある者たちはイエス様に生涯を通して従い続けました。

 今の私たちも、イエス様はただ人であるだけでなく、神の御子であるとわかるとしたら、それは聖霊なる神様のお働きによります。このイエス様だけを見つめましょう。このイエス様だけに耳を傾けましょう。神様によって造られ、神様に生かされているのに、神様から離れてしまった私たちの罪を身代わりに背負うために、十字架へと向かわれたイエス様を見つめましょう。イエス様について行くために、日々自分の十字架を背負えるように、「聖餐」を受けることで強められましょう。

(記:牧師 小暮智久)