2021年2月7日 礼拝説教「聖餐の恵み」

聖書: コリント人への手紙 第1  11章23~29節

Ⅰ.はじめに

 どのような1週間を過ごされたでしょうか?政府が大阪府に出している「緊急事態宣言」が3月7日(日)まで延長されました。状況が改善されれば前倒しの解除もあり得るようです。感染状況や医療への大きな負担が少しでも改善され、宣言が解除され、また集まって共に主を礼拝できる日が来ますようにと心から願っています。

 礼拝のライブ配信ができ、礼拝の様子をスマホやパソコンの画面上で見たり聴いたりできるのは、これがないよりはとても助けになりますが、やはり実際に礼拝堂に座り、ほかの人々と同じ空間で一緒に礼拝するのとは違うでしょう。全く会えないよりは画面越しでも会えるのはうれしいですが、やはり神様の家族がお互いに顔と顔とを合わせて会えて、実際に一緒に天のお父様を礼拝できる喜びには代えられないのではないでしょうか。

 私たちの教会では、第1の主の日は聖餐礼拝式で、聖餐の恵みを共に受けておりますが、今日は共に集まれず、聖餐をみなで共にいただくこともできません。しかし、聖餐の恵みについて『聖書』から共にお聴きしましょう。聖餐の恵みをみことばから思いめぐらすだけで、実際に聖餐を味わえないのは「お預け」というような感じで残念ですが、このようなときだからこそなお深く、強く、聖餐を共にいただける日を待ち望みたいと思います。

Ⅱ.みことば

1.イエス様がしてくださったことを味わう恵み(Ⅰコリント 11章23~25節)

 聖餐は、私たち人間の考えによらず、イエス様から始まりました。「主から受けたこと」が、「あなたがた」と呼ばれるコリント教会に伝えられ(23節)、今の私たちに伝えられてきました。聖餐は、原点のイエス様と、約2000年間の教会の歴史を思い起こさせます。

 聖餐とは、イエス様が私たちのために何をささげてくださったかを思い起こす食事です。しかも、ただ思い起こすだけでなく、イエス様が私たちのために与えてくださったからだと血とに「あずかる」食事です(10:16)。この「あずかる」とは、「与る」と書き、「関わりをもつ」「仲間に加わる」という意味です。「イエス様と一つとされる」「イエス様のからだの一部とされる」とも言えるでしょう。しかも、「皆が共に一つのパンを食べる」(10:17)ことによって、私たちがイエス様のからだの一部であり、お互いが「一つのからだ」(10:17)であることを覚えるのです。最近のコロナ禍で、ある教会は聖餐もライブ配信で画面越しに各自がパンとぶどうジュースを準備して行なっているようですが、これには私は多くの問題があると思っています。一つのパンを共にいただくことに意味があると思うからです。

 聖餐は、約2000年前、イエス様が十字架に釘づけられる前の晩、弟子たちと夕食を共にした時に、イエス様がお命じになりました。23節後半~25節を読みましょう。私たちは聖餐のパンと杯をいただくたびに、イエス様がしてくださったことを、頭で思い出すだけでなく、からだで味わい、実感し、経験するのです。イエス様が十字架でご自分のからだをささげ、血を流してくださったのは、私たちの罪に対する神様の怒りとその結末である滅びから、私たちを救い出し神様の子どもとして回復するためでした。聖餐は、イエス様が私たちために十字架におからだをささげ、血を流してくださったことを、自分だけでなく、神様の家族と共に、頭で考えるだけでなく、からだで味わい、経験する恵みです。

2.イエス様が再び来られるのを待ち望む恵み(Ⅰコリント 11章26節)

 聖餐は、「主が来られるまで」(26節)とあるように、イエス様が目に見える形で再び来られるのを待ち望む恵みです。しかも、その日まで私たちは「このパンを食べ、杯を飲むたびに、・・・主の死を告げ知らせる」(26節)のです。これはどういうことでしょうか? 

 聖餐を受けるたびに読まれる「これはあなたがたのための、わたしのからだです」(24節)、「この杯は、わたしの血による新しい契約です」(25節)というイエス様のことばは、イエス様が十字架で死なれたのは誰のためであったかを、聖餐を受ける私たちだけでなく、すべての人々に広く公けに告げていることばです。

 聖餐が行われるたびに、イエス様の十字架での死がすべての人々のためであったことが告げられ、聖餐を受ける私たちも、イエス様が再び来られるのを待ち望みつつ、イエス様の十字架での死と3日目の復活がすべての人のためであると告げ知らせていくのです。

3.イエス様によって整えられる恵み(Ⅰコリント11章27~29節)

 私たちは27節の「主のからだと血とに対して罪を犯すことに」なるような「ふさわしくない仕方」という表現が気にかかるのではないでしょうか。「自分がふさわしいかどうかという問題について、だれよりも悩んでいたのがウェスレー自身だった」(前掲書,p.57)というのは興味深い事実です。確かに「口語訳聖書」では「ふさわしくないままで」(27節)と訳され、「自分の品性が聖餐にふさわしいかどうか」を言っているように思えます。しかし、「新改訳2017」では「ふさわしくない仕方で」と訳され、この箇所の文脈に合っています。当時のコリント教会では「聖餐式」のために集まる時、その前に「愛餐」と呼ばれる、分け合って食べる食事をしていました。しかし、ある人は分け合わず、自分だけで勝手に食べ、「空腹な者もいれば、酔っている者もいる」(21節)という状態で、その後に始まる「聖餐式」を、心を合わせてすることができませんでした。これが27節で言われている聖餐の「ふさわしくない仕方」なのです。つまり、「自分がふさわしいかどうか」とは別問題で、「食べ方や飲み方がふさわしくない」ということが取り上げられているのです。

 聖餐は、私たちがイエス様によって養われ、整えられる恵みです。それは、聖餐を受けることによって私たちが実際に信仰を強められ、整えられることです。また、聖餐を受ける前に、食べ方や飲み方を含め、自分自身を吟味し、振り返ることで整えられる恵みでもあります。28節を読みましょう。「自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」とあります。私たちフリーメソジストのルーツ、英国国教会の中でメソジストと呼ばれる改革運動を指導したジョン・ウェスレーは、この「自己吟味」について「自分自身の状態の吟味」と「自分が完全に罪深くどうしようもないという意識」に至ることが大切と述べています(スティーブ・ハーパー,『信仰生活の手引き ウェスレーに学ぶ神との交わり』,p.60,当教会の図書貸出コーナー蔵書)。「今も昔も、全ての人は『ふさわしくない』のです。聖餐への招きは、まさにそのふさわしくない人に神の恵みが豊かに注がれるために与えられるのです」(前掲書,p.58)とハーパーは述べます。「聖餐を受けること」と「ざんげの祈り」に導かれるような自己吟味こそ、28節のみことばが求めているものでしょう。

Ⅲ.むすび

 イエス様が十字架で私たちのためにおからだをささげ、血を流してくださったことを覚え、今週もイエス様のからだの一部として、イエス様の再臨を待ち望みつつイエス様を人々に指し示し、聖餐を共にいただける日を待ち望みましょう。

(記:牧師 小暮智久)