2021年1月24日 礼拝説教「イエス様の弟子として」

聖書: ルカの福音書 6章 37~42節

Ⅰ.はじめに

 どのような1週間を過ごされたでしょうか?政府による「緊急事態宣言」が大阪府にも出されて、不要不急の外出の自粛が要請され、いろいろことに気を遣い、思うように行動できないことに不自由を感じているお互いではないでしょうか。また、外に出なくなったことで、身体や心が不調を感じるということもあるかもしれません。今の時期の私たちの行動の自粛が有効に働き、新型コロナウイルスの感染が収束しますように、また、このような制限のある時期を過ごす私たちひとりひとりを、私たちの教会を、主がお守りくださり、導いてくださいますように、心から切にお祈りします。

 私たちの教会では2017年5月から「ルカの福音書」を共にお聴きしています。前回11月22日にともにお聴きした所の続きの箇所をさきほどお聞きしました。ここはイエス様が弟子たちと共に山を下り、平らな所に集まって来ていた大勢の人々に話し始められた場面の続きです。その内容は、マタイの福音書5~7章の「山上の説教」とよく似ているのですが、山の上ではなく平野で語られたことから「平野の説教」と呼ばれ、6章20節から始まっています。前回お聴きした35節に「いと高き方の子ども」という表現が出て来たように、ここでは、イエス様を信じる私たちは、「いと高き方」、すなわち、神様の子どもとしてどう生きるのか、今日40節に出てくる「弟子」という表現のように、イエス様の弟子としてどう生きるのかが、取り上げられています。みことばに共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.命じられたこと(ルカの福音書 6章37~38節)

 イエス様はここで「さばいてはいけません」(37節)と命じられました。これは、どういう意味でしょうか?「ほかの人に対して、あるいは、主にある兄弟姉妹に対して、自分の意見や考えを言ってはいけません」という意味ではありません。私たちはお互いに関心をもち、お互いに意見や気持ちを伝えあうことで、お互いの思いを分かち合うことができ、交わりを深めることができます。必要であれば、お互いの間違いを指摘し戒め合うことを『聖書』は「互いに訓戒し合う」(ローマ15:14)ということばで表現し、当時の教会にそのような交わりがあったことを伝えています。ですから「さばいてはいけません」とは、お互いに心の距離をとり、関わらなくなるということではないのです。では、どういう意味でしょうか?「さばいてはいけません」とは、自分を絶対正しいとして神の位置に置き、相手を間違っていると決めつけ、最終的な判断を下してはいけないということです。

 「そうすれば、あなたがたもさばかれません」(37節)とあります。これは、主によってさばかれないという意味でしょう。自分が他の人をさばく基準で、自分も主によってさばかれないために、私たちは人と接するときに、すべての人をさばく主の前にやがて自分も出る存在なのだということを覚える必要があるのではないでしょうか。

 その意味で「人を不義に定めてはいけません」(37節)という命令も、自分の判断を絶対化しないようにとイエス様の意図が伝わってきます。また、「赦しなさい」(37節)も自分の判断を絶対化していた自分が、イエス様の十字架によってそのすべての罪を赦されたのだから、そう歩むようにと語られるイエス様の心が伝わってきます。

 「与える」(38節)とは、「何を?」でしょうか?時間や与えられている賜物を、でしょうか。「そうすれば、あなたがたも与えられます」(38節)とは、主によって、とも言えますし、人々からとも言えるでしょう。この与えられ方は、詰め込み、揺すり入れ、大盛ににし、気前よく、というふうに、とにかく「豊かに」です。この地上で、時間を、賜物を豊かに、主のために、人々に与えた人には、地上でも、新しい天と地においても、豊かなものが与えられると、イエス様はここで約束しておられます。楽しみにしましょう。

2.弟子が目指すもの(ルカの福音書 6章39~40節)

 ここでイエス様は、一つのたとえ話をされます。このお話は他の福音書では全く違う場面で、パリサイ人の姿を表わすたとえ話として語られたと記されています(マタイ15:14)。しかし、この「ルカの福音書」では「いと高き方の子どもとして、どう生きるか」というテーマの中で、神様の子どもとされた人が、イエス様の弟子としてどう歩んだらよいかを示すたとえ話となっています。

 「盲人が盲人を案内できるでしょうか」(39節)と言われました。盲人の方の道案内をするには、目が見えている人の方が確かではないでしょうかとイエス様は言われたのです。それと同じように、誰かをイエス様のもとに導き、神様のもとに案内しようと思ったら、イエス様を少しでも知り、神様がどんなお方かを『聖書』から知る必要があるのではないでしょうか。イエス様を信じ、神様の子どもとされた私たちは、イエス様の弟子として、日々イエス様について『聖書』を読んで教えられ、今度は自分が人々をイエス様のもとに案内できるように整えられていく必要があるのです。そのために、どうしたらよいでしょうか?40節を見ましょう。教会の仲間と共に『聖書』を読み、教えられることによって、イエス様の訓練を受け、師であるイエス様に似た者とされることを目指しましょう。

3.気がつかないもの(ルカの福音書 6章41~42節)

 イエス様は「なぜ気がつかないのですか」(41節)と私たちに問いかけておられます。私たちが、気がつかないと言われているのは、いったい何でしょうか?41節を読みましょう。これは、非常におもしろいことばです。ここには、イエス様のユーモアがあります。厳しい内容のことを言われていますが、ここを語る際、イエス様は少しほほ笑んでおられたのではないでしょうか。「梁」というのは家を支えるものすごく太い材木です。「ちり」はとっても小さいものです。「新共同訳」という翻訳では「丸太」と「おが屑」と訳されています。他の人の目にある「ちり」「おが屑」はよく見えて、気になって、取ってあげたいと思うのに、自分の目をふさいでいるような「梁」「丸太」には、なぜ気がつかないのか。42節を読みましょう。私たちはお互い、自分のことはなかなかわからないのではないでしょうか。反対に、ほかの人の間違いや自分とは違う点にはすぐ気がつくのではないでしょうか。自分が、自分の目にある「梁」に気づくには、どうしたらよいのでしょうか?イエス様の弟子として、イエス様に「気づかせてください」と祈る必要があります。

Ⅲ.むすび

 イエス様は私たちの罪を背負い、十字架で死んでくださり、3日目に復活されました。神様は、イエス様を救い主と信じる私たちの罪を赦し、不義に定めず、ご自分の子どもとし、イエス様の弟子としてくださいました。弟子は先生に似ていきます。イエス様の弟子は、イエス様に似ていくのです。自分の姿が、イエス様からどう見えているかに気づくことができるように、イエス様に似た者とされるように祈りましょう。

(記:牧師 小暮智久)