2021年7月25日 礼拝説教「何のための人生?」

聖書: 創世記  48章1~7節

Ⅰ.はじめに

 先ほどは「今日はひかりを たまいし日なり」と讃美歌55番、「主の日」を覚える讃美を神様にともにおささげしました。1節では、神様がこの世界を造られるとき、最初に「ひかり」を造られたことを歌っています。それは、週の初めの日、今の「日曜日」です。5節では主イエス様が「よみ」、死に勝利して復活されたのが「きょう」だと歌われています。それまではユダヤの国の礼拝の日は土曜日でしたが、イエス様の弟子たちはイエス様の復活を記念して日曜日ごとに集まるようになりました。そして、日曜日は「主イエス様の復活の日」「主イエス様の日」「主の日」と呼ばれるようになり、人々が集まって礼拝する日となり、お仕事や学校などを休む日となりました。さらに、この週の初めの日、「主の日」は礼拝の日なので「お休みの日」となり、このことが世界中に広がり、日本でも日曜日は「お休みの日」となったのです。「日曜日に教会に集まって礼拝するのはなぜか」と言えば、主イエス様が復活された特別な日、「主の日」だからです。また、「主の日」は、先週を振り返り、今週に思いをはせる大切な時ではないでしょうか。神様のみことばによって、自分を振り返り、これからを何のために歩んでいくのか、ともにみことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.みことばの実現の途上(創世記 48章1~6節)

 私たちの教会では、特別な時以外は、新約聖書では「ルカの福音書」を、旧約聖書では2004年から「創世記」を、礼拝で少しずつ共にお聴きし、神様のみことばに養われています。「創世記」を前回お聴きしたのは6月27日で、今日はその続きのみことばです。「創世記」は天地創造、人間の創造、人間の最初の罪とその結果などを語り、神様が私たちを罪と滅びから救い出してご自分との関係を回復するためにアブラハムという人を選ばれたことを告げています。神様は、そのアブラハムの子孫をご自分の民、神様の民とし、そこから全世界の人々に祝福が、罪と滅びからの救いが広がっていくことを約束されました。今日お聴きしたところは、アブラハムの孫ヤコブという人が147歳の時、故郷のカナンを離れたエジプトで病いに伏していましたが「力を振り絞って」(2節)座り、自分の子ヨセフと孫のマナセとエフライムを前に、自分のこれまでを振り返って語っている場面です。

 私たちにも自分のこれまでを振り返る時があるでしょうか。たとえば、病気やケガをした時、困難や挫折を経験した時、あるいは卒業とか退職とか転居とか人生の節目や大きな変化を経験した時かもしれません。これまで自分は何のために生きてきたのだろうかと振り返り、これから何を中心に生きるのだろうかと考えるのです。ヤコブがこれまでを振り返り、まず語ったのは、神様が自分に現われ、自分を祝福して(自分の存在を祝い、喜んで)、みことばをくださったことでした。3~4節を読みましょう。それは、28:13-15、または35:11-12の経験です。どちらも場所はルズ、ヤコブがベテル(神の家)と名づけた所です。

 あなたにも、自分のこれまでを振り返って思い出す神様のみことばがあるでしょうか?私もいくつかのみことばを思い出します。例えば、この教会に牧師として任命された1994年4月、最初に礼拝堂で正座して祈ったことは「この近隣地域や教会員の家族・友人からイエス様を信じて救われる方々が続々と起こされますように」でした。その時、心に深く刻まれたみことばは使徒18:10です。同じ教会に続けて任命されて28年目、ごく近くの湯里5丁目から2人の方が洗礼を受けられたことを含め、長く途切れることなくほぼ毎年、これまでに59名の方が洗礼を受けられました。神様のみことばの確かさを実感します。約束の実現はまだ途上にあり、これからも神様はご自身の働きをお続けになられます。

 ヤコブは、神様のみことばを中心に親子三世代で集まりました。ちょうど今の「主の日」の礼拝のようです。そして、神様のみことばの実現がまだ途上であることも覚え、みことばを親子三世代で分かち合い、「力を振り絞って」(2節,印象的!)継承しようとしたのです。

 5~6節では孫の二人を自分の子とすると宣言しています。マナセが兄であるのに、弟のエフライムを先に呼ぶことも含め、息子ヨセフの子どもを自分の子とするのは預言的な行動です。ヤコブの長男はルベンですが、長子の権利はヨセフの子に移るのです。I歴代誌 5:1-2を読みましょう。名前が並ぶだけで退屈に見える箇所も大切なみことばです。事実、ヨセフの子の弟エフライムと兄マナセはイスラエルの2つの部族として大きくなります。

2.旅の途上(創世記 48章7節)

 ここでヤコブが妻ラケルの死を話題にしたことは唐突なようにも思えます。しかし、ラケルが息子ヨセフの母であり、その死(35:16-19)がルズでの神様の現われ(35:9-12)の直後だとすれば、旅の途上で愛する妻が召され、エフラテへの道のその場所に葬ったことを思い出すのは自然です。エフラテとはベツレヘムという町の別名で、のちにキリスト(救い主)が生まれる町として預言され(ミカ5:2)、その通りにイエス様はベツレヘムで生まれました。

 先ほどのヨセフの子を自分の子とするのが預言的な行動であるならば、そのあとでベツレヘムへの途上でラケルが死んだと語るのも象徴的、預言的な行動と言えないでしょうか。キリストがベツレヘムで生まれ、私たちすべての人のために十字架で死なれ、3日目に復活されることで、アブラハム、イサク、ヤコブへの「神様の祝福の約束」が実現し、それが全世界に伝えられ、神様の民が世界に広がっていく。ヤコブにとっては、はるかかなたの将来の出来事ですが、「神様の祝福の約束」の実現の途上で彼は生かされ、役割を果たしたのです。私たちも今、神様の約束の実現の一部分を担う人生の旅の途上にいるのです。

Ⅲ.むすび

 私たちはこれまで、何のために生きてきたのでしょうか?自分のためでしょうか?確かにそうでしょう。自分の幸福、人からの評価、達成感を求めてかもしれません。しかし、それだけだと、自己満足か、自己憐憫かに陥りがちで、どちらもむなしいのではないでしょうか。自分は「生きてきた」のではなく、「生かされてきた」と振り返るならば、「生かしてくださっている神様の目的」を考えざるを得ません。私たちは、神様のみことばの約束の祝福を味わい、その実現のために生かされています。ヤコブはその人生で、神様のみことばの祝福の一部分を味わい、一部分を使命として果たし、ヨセフとエフライムとマナセにバトンを渡したのです。私たちそれぞれに与えられた神様からの祝福と目的とは何でしょうか?まず、私たち自身がイエス様を救い主と信じ、神様との交わりの祝福に入れていただくことです。イエス様を信じることはゴールではなく、始まりです。神様との交わりの祝福は、そこから深められ、広がっていきます。特に日々『聖書』を読み、お祈りすること、「主の日」に集まって礼拝することで、神様のみことばの約束は私たちに実現していきます。神様の祝福がすべての人におよび、新約聖書で言えばIテモテ2:4のみことばの実現のため、教会の将来のために、今できることは何でしょうか?

(記:牧師 小暮智久)