2021年7月18日 礼拝説教「仲直りしましたか?」

聖書: マタイの福音書 5章21~26節

Ⅰ.はじめに

 コロナウイルスに関わる緊急事態宣言で、例年より1ヶ月遅くなりましたが、今日は私たちの教会が始まって98年、この教会堂ができて55年を記念する礼拝です。教会そのものの始まりはイエス様からで、エルサレムからいろいろな国へ広がっていきました。1054年には東の正教会と西のローマ・カトリック教会が分かれ、1517年には西のローマ・カトリック教会からプロテスタント教会が分かれて、それぞれ広がっていきました。1534年にはローマ・カトリック教会から英国国教会が独立し、英国でジョン・ウェスレーたちの教会改革運動があり、1784年にメソジスト教会ができました。メソジスト教会はアメリカに広がり、B.T.ロバーツたちの改革運動で1860年にフリーメソジスト教会ができたのです。フリーメソジスト教会が日本で伝道を淡路島で始めたのは1896年。教会は大阪にも広がり、阿倍野区で教会が始まったのが1923年6月。これが私たちの教会の始まりで、あと2年で100年です。阿倍野区から、東住吉区のここ湯里に教会堂を建てて、移ってきたのが1966年6月。建築を始めたのは1月15日、献堂式は6月19日でした。当時の礼拝は75名、祈祷会は24名だったということです(『記念誌』,3誌、参照)。

 今日は「教会学校」の『聖書』の所を読んでいただきました。「教会学校」は今、「山上の説教」というテーマです。目標は「イエス様により頼み、その教えを実行する者となる」ということです。イエス様のみことばを聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.人の仲をこわすことば(マタイの福音書 5章21~22節)

 イエス様は約2000年前、当時のあたりまえのことを語りました。21節を読みましょう。「殺してはならない。人を殺す人はさばきを受ける」。これは今の日本でも同じでしょう。

 「しかし」(22節)と、イエス様は言われます。22節を読みましょう。「兄弟」とは、実際の兄弟や姉妹だけでなく、仲間や友だち、同じ国の人も含みます。身近な人に怒るなら、その人を殺したのと同じで、裁判を受けるのだと言われたのです。今の言い方では「死ね」など、人を傷つけることばを言ったら逮捕されて裁判を受けるほど重い罪ですよ、とイエス様は語られたのです。それほどにイエス様は、人との仲をこわすことを嫌われたのです。でも、身近な人への正しい怒りというものはあるのではないでしょうか。その場合、「死ね」ではなく、「私はこのことで怒っている」と言えばよいのです。正しい怒りをことばにしないなら、うらみに変わってしまうかもしれません。さらに、イエス様は人に「ばか者」と言う人は、今で言えば最高裁判所でさばかれるのだと言われました。今の言い方では「ウザい」や「きもい」と似ているでしょうか。また、「愚か者」と言う人とは「知らないだろうから教えてあげよう」と見下す人でしょう。ゲヘナとはエルサレムのゴミ焼き場の名前です。この人の罪が最も重く、永遠のさばきの火に投げ込まれるのだと言われたのでした。

2.仲直りするには(マタイの福音書 5章23~26節)

 ここでイエス様が話していることは、どうしたら天国に入れるかではありません。すでにイエス様を信じて天国に迎えられる人として、身近な人と仲直りしているかということです。つまり、「神の国」での自分と人との関係についてです。23節を読みましょう。自分が誰かを傷つけ、誰かに憎まれているのではないかと気づいたら、急いで仲直りする必要があります。ある宣教師が日曜日の夕方の礼拝で説教をする予定でした。ところが、説教前の讃美の時、「急用がある」と言って家に帰ったのだそうです。5分後には戻って来て、説教の奉仕をし、礼拝は終わりました。司会者は「さっき帰った用事は何でしたか?」と聞きました。すると宣教師は「家を出る前に妻とけんかしたのです。このままでは聖書の話はできないと思い、妻にあやまってきました」と言ったそうです。24節を読みましょう。ささげ物はそこに置いたままで、あやまりに行くほどの、それこそ「緊急事態」なのです。

 次の場面は、自分を訴える人と裁判所に着くまでに仲直りしないとどうなるかを描いています(25節)。手遅れになると、判決が出て、牢屋に投げ込まれ、罰金を払い終わるまで出られません(26節)。裁判官が神様だとすると、誰かが自分を神様に訴えているのではないかと気づいたら、神様のさばきを受ける前にその人と仲直りしないと手遅れになります。

 イエス様を信じて神様の子どもとされ、「神の国」の国民とされても、私たちは毎日の生活で誰かを傷つけることを言ってしまうことがあります。クリスチャンは完全な人ではなく、自分のまちがいに気づき、あやまれる人です。誰かが自分に怒っているのではないかと気づいたら、イエス様の十字架によって神様に赦された者として、その人に「ごめんなさい」とおわびすることができます。また、誰かに傷つけられたと怒っているなら、それを相手に伝え、神様に赦されている者として、自分もその人を赦すということができます。

Ⅲ.むすび

 今のこの世界での生活は、天国での生活の練習と言えるかもしれません。私たちの罪のために十字架で死んでくださったイエス様を、救い主と信じて「神の国」の国民とされた人は、今の毎日の生活も「神の国」での生活であり、それは天国での生活へとつながっているのです。今、私たちは家族や兄弟や姉妹、近所の知り合いや友だち、教会の人の誰かにうらまれていないでしょうか?そして、この教会は地域の人々や私たちの家族などを知らないうちに傷つけ、うらまれているということはないでしょうか?日曜日の朝の讃美歌や説教の声がうるさく迷惑だと感じている人もあるかもしれません。イエス様が自分を低くされたように、私たちも、また教会としても、自分を低くしてその人と仲直りできるように祈り、すぐに仲直りできなくても、そうしたいと思っていることを伝えましょう。天国は、イエス様を信じることによって神様と仲直りし、人とも仲直りした人が迎えられるところです。天国は、お互いにゆるされた者同士が一緒に生活するところです。今週の「神の国」の生活で、ゆるされること、仲直りすることを経験しましょう。

(記:牧師 小暮智久)