2021年8月1日 礼拝説教「主の臨在」

聖書: 申命記  31章7~8節

Ⅰ.はじめに

 最近、目や耳に飛び込んでくるのは、東京オリンピックとコロナの状況ばかりのように感じます。もちろん多くの人が関心をもっている事柄でしょう。しかし、ほかにも大事なことはないのでしょうか。出来事が起きていても、誰の目にも留まらない。語られていても、誰の耳にも聞こえない。そうならないために、見えないものに目を留めるまなざしと、かすかな声を聴き分ける耳を与えられたいと願います。私たち人間にとって根本的に大切なこととは何でしょうか?それは、「創造主である神様と自分との関係は今、どうだろうか?」とか、「身近な人と自分とは心にとがめられることのない関係だろうか?」などです。

 先ほどお聴きした「主ご自身があなたに先立って進まれる」(申命記31章8節)は今年度の私たちの教会の主題のみことばで、「主よ、導いてください」が主題です。今日は、8節の「先立って」というみことばの脚注の箇所を開きつつ、思い巡らしましょう。

Ⅱ.みことば

1.焼き尽くす火として(申命記 9章3節)

 今から3420年ほど前、紀元前1400年ごろ、イスラエルの民は西アジアの死海の東側のモアブの地から、神様が与えると約束されたカナンの地に入ろうとしていました。次にリーダーとなるヨシュアに、今の指導者のモーセが語ったことばが7~8節です。「主ご自身があなたに先立って進まれる」(8節)。この「先立って」ということばの右肩に小さく「1)」と書かれているのが見えるでしょうか。これが『聖書』の日本語訳で「新改訳」という翻訳の特色の一つで、ページの下の方の欄外に小さく「8」の下に「①申九3、出一三21,22」とあります。これは、「8節の『先立って』の関連個所は、申命記9:3と出エジプト記13:21,22ですよ」という脚注です。申命記9:3を開いてみましょう。そこには「主ご自身が、焼き尽くす火としてあなたの前を進み、彼らを根絶やしにされる」とあります。主ご自身が、約束の地に入るイスラエルの民の前を進み、その土地の先住民を滅ぼすと言われています。実際に戦うのはイスラエルの民と先住民ですが、「主ご自身が、焼き尽くす火として」イスラエルの前を進み、主が彼らを根絶やしにし、征服されるのだと言われているのです。

 「主ご自身があなたに先立って」(31:8)というのは、単に先導して道案内をするというだけでなく、神様が先住民を滅ぼすために先立って進まれるのだということが、申命記9:3から見えてきます。ここで、現代の私たちは大きな疑問やつまずきを覚えないでしょうか。これは侵略とどう違うのか。「殺してはならない」と命じた主が、なぜ、先に住んでいた人々を滅ぼすために、イスラエルの民に彼らを皆殺しにせよと命じるのか。疑問は尽きません。申命記9:4に手がかりがあります。「邪悪さのゆえに」(4節)、彼らは神様にさばかれ、そのために用いられたのがイスラエルの民だったのです(4~5節)。実は以前、イスラエルの民も神様を怒らせ、根絶やしにされるところだったのを忘れてはならないとあります(6~8節)。約束の地に入って約800年後、今度はイスラエルが主以外のものを神とする邪悪さゆえに他の国に滅ぼされるという神様のさばきを受けることになります。

 聖なる神様の前では自分は滅ぼされて当然なのだと私が自覚したのは42年前、高校2年の夏、オリンピックのサーフィン競技が先日行なわれた海岸の近くの千葉県一宮でのhi-b.a.キャンプでした。神様に敵対していた自分の罪の深さと、イエス様をくださった神様の恵みの深さを知り、イエス様を救い主と信じて救われた喜びを実感したのでした。

 私たちに「先立って進まれる」主というお方は、ご自身に頼り従う人には恵み深く、ご自分を無視し逆らう人には焼き尽くす火としてさばくお方であることを覚えましょう。

2.雲の柱、火の柱によって(出エジプト記 13章21~22節)

 「主ご自身があなたに先立って」に関連するもう一つの引照箇所、出エジプト13:21,22を開きましょう。ここには、過去40年間、イスラエルが荒野を旅してきた間、昼は雲の柱の中に、夜は火の柱の中に主がおられて、「彼らの前を進まれた」という神様が導く方法が書かれています。荒野の恐ろしさとは、雨が少なく、飲み水や食べ物がほとんどないということだけではないと思われます。目印や地図もなく、どちらに進んだらいいかわからないことも荒野のこわさではないでしょうか。そのような荒野を行くイスラエルの人々を、神様はご自分が、昼は雲の柱、夜は火の柱の中におられて、人々に方向がわかるように、まっくらな夜の荒野でも、人々がはっきりと見えるようにお導きになったのでした。

 しかもこれも単に道案内というだけではなかったようです。民数記9:15~23を見ると、何日も同じ場所にとどまり、夜であっても火の柱が動けば出発することがあったとわかります。人々は「どうして、こんな時に」と思ったかもしれませんが、神様の判断があったのでしょう。そして、この主の命令によって旅立ち、主の命令によってとどまるという経験を通して、イスラエルの民は神様の導きに対して、納得してもしなくても従うということを訓練されたのではないでしょうか。神様の導きを受けるとは、単なる道案内や人生のガイドとして自分のお守りや安心のためだけでなく、私たちが神様を「私の主」と恐れ敬ってお従いし、神様への信頼を深められていく経験なのではないでしょうか。

 約束の地に入ってからは、雲の柱、火の柱による導きはなくなります。そのあとは何がイスラエルの民を導いたのか?それは、モーセによって与えられた「十戒」などの神様のことば、みことばです。「主ご自身があなたに先立って進まれる」(31:8)と言われるとき、これからは主のみことばが彼らを導くのです。今の私たちにとって神様の導きは、何によって示されるのでしょうか?それも、主のみことばであり、ともにみことばを聞く交わりではないでしょうか。自分ひとりで『聖書』を開き、神様の導きをいただくのは恵みです。しかし、誤解をしたり、受け取り方を間違ったりすることもあります。ですから、自分でみことばを読んだら、だれかに話し、疑問などを聞いてみるのです。一緒に集まる礼拝、平日の集会、そして、主にある交わりは、ひとりよがりや独善を避けさせ、神様の導きについて自分だけでは気づかないことに気づかせてくれるのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 雲の柱、火の柱の中には主ご自身がおられました。みことばは、主ご自身のことばです。「臨在」ということばがあります(出エジプト33:12-15)。神様が自分のすぐ近くにおられることを意味します。「聖餐」はただ、イエス様の血と身体の象徴ではありません。「聖餐」にはキリストが臨在されます。「聖餐」を受けることで私たちのために十字架で血を流し、肉体を裂かれたキリストのご臨在を親しく経験し、私たちのうちに住まわれる内住のキリストに導かれて、思いとことばと行ないが聖められますように。

(記:牧師 小暮智久)