2024年1月1日 元旦礼拝説教 「天と地と私」

聖書: 創世記  1章1~3節

Ⅰ.はじめに

 教会に初めて来られた方は何を感じるのでしょうか。なぜ、一緒に歌を歌うのだろうとか、なぜ分厚い本を開いて読むのだろうとか、様々なことを感じるのだろうと想像します。それは人によって違うと思いますが、教会に初めて来られた人の身になって考える心を忘れたくないと願っています。『聖書』を初めて開いた人は、その第1ページを見て、どう感じるのでしょうか。その疑問や違和感などを想像する心を持っていたいと願います。

Ⅱ.みことば

1.はじめに神が(創世記 1章1節)

 教会の礼拝に来られて、奇跡や復活の話は信じられないという人がおられるのはごく当然のことだと私は思います。これらの奇跡は、この世界の常識や科学の法則に反することですから、あるはずがないとか、信じられないという人があって当然だと私は思います。

 では、『聖書』の最初の言葉はどうでしょう。「はじめに神が天と地を創造された」。これも衝撃的な言葉ではないでしょうか。この天と地は、太古の昔、歴史の初めからあったのではなく、ある時から存在するようになり、造ったお方がおられるのだというのです。疑問や違和感を覚える方は多いのではないでしょうか。進化論を学校で教えられ、科学の時代と言われる今の日本で「神(かみ)」という文字は、神話やおとぎ話をイメージさせるかもしれません。しかし、科学はニュートンやガリレオなど『聖書』を信じる人々によって発展した学問であり、現代にも天地を造られた神を信じている科学者は多くおられます。

 そして、もし『聖書』のこの最初の言葉を受け入れることができれば、そのあとに出てくる、海の水が分かれる奇跡やキリストの処女降誕やその生涯での奇跡、キリストの復活、さらには『聖書』が予告するキリストの再臨と人々が天に携え挙げられることも、この世界を造った神というお方がおられて、そのお方ならば可能ではないかと信じることができるのではないでしょうか。

 1968年に打ち上げられたアポロ8号で、人類は初めて月の周囲を飛びました。地球からは見えない月の裏側の上空をまわり、月の裏側から地平線(月平線?)の向こうに地球が見えるようになる直前、宇宙飛行士は「さあ、もうすぐ地球の出です」と言いました。日の出ではなく、地球の出。青く輝く地球の出を見ながら乗組員はこう言ったそうです。「私たちアポロ8号のクルーから地球の皆さんにメッセージを送ります。『はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面(おもて)の上にあり、神の霊がその水の面(おもて)を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった』」(藤本 満,『わたしの使徒信条』p.27-28)。これは『聖書』の最初の言葉です。人類の科学の結晶である宇宙飛行船に乗った飛行士が、こう言わずにおれなかったのは意味深いのではないでしょうか。

2.天と地を創造された(創世記 1章1~3節)

 「はじめに神は」と今の私たちにも語り始める『聖書』は、「天と地を創造された」と言葉をつづけます。「天と地」とは何でしょうか?それは、この世界のすべてのもの、そして、その「天と地」の間に生きている人間という、私たちひとりひとりの存在を含みます。この言葉にはどんな意味があるのでしょうか?もちろん、この世界はいつの間にか存在するようになったというのではなく、始まりがあるのだということ、それは神が造った作品なのであり、天と地というものを存在させたのは神なのだという事実を意味しています。しかし、それだけでしょうか。神はこのあと「光、あれ」と言われます。すると光ができます(3節)。これは確かに「光」ができたという出来事を意味していますが、それだけではありません。「神」というお方が「光、あれ」と言った意図や目的があったということを意味しています。この世界はたまたま偶発的にできたのではなく、この「神」というお方の意志や計画が反映されて、意図と目的をもって造られたのだということが語られています。それは、私たちひとりひとりの存在、命、人生にも、このお方の意図があるということを意味します。

 以前のNHKの大河ドラマの「八重の桜」の主人公、山本八重と結婚した新島 襄は同志社大学を創立した人として知られています。新島 襄は若い時代に、友人の家で『聖書』の一部分をまとめた数冊の本を見つけ、借りて来て家で読みました。江戸時代の末期でキリスト教が禁じられていた時代ですから、彼はびくびくしながら読んだそうです。「はじめに神が天と地を創造された」という最初の言葉に彼は驚きました。彼はその日のことを後に手紙に書いています。「私は、それらの本を綿密に注意して読んだ。私は一方では懐疑を持ったが一方ではうやうやしい畏敬の念に打たれた。・・・私たちの住んでいる世界は、神の見えざる手によって創造せられたもので、偶然に出来たのではないことを私は悟った。私は・・・神の別名が〈天の父〉であることを発見した。それは私の心の中に今まで以上に神に対する畏敬の念を起こした」(守部喜雅著,『聖書を読んだサムライたち』,p.74)。その日、新島 襄は生まれて初めてお祈りしたそうです。「神さま。この天と地とをおつくりくださったことを感謝します。私の両親をつくられたことを感謝いたします。そして、私をもおつくりくださったことを、感謝いたします。今まで知らなかったとはいえ、お礼をも申し上げなかったことを、おゆるしください」(少年少女信仰偉人伝『新島 襄』,p.22)。

Ⅲ.むすび

 「はじめに神は天と地を創造された」。この『聖書』の言葉を初めて聞いた新島 襄のお祈りが「感謝とおわび」であったということが、私には印象的です。讃美歌の239番に、「さまよう人々、たちかえりて」という歌があります。その1節に「つみとがくやめるこころこそは 父より与うる たまものなれ」という歌詞があります。この歌詞と新島 襄のお祈りとが重なってくるように思えないでしょうか。この世界を造られたお方を認めない間は、私たちは科学の法則や自分の常識を超えるものを信じられません。しかし、天と地、そして自分を造られたお方、この神様こそが天の父だと知らされる時、この父を認めなかったことをおわびする心が与えられます。この神様を認めなかった失礼な態度に対する父の当然の怒りを、キリストは十字架で私たちひとりひとりのために、私のために身代わりとなって受けて死んでくださいました。そして3日目に復活され、神様との絆が回復される道を備えてくださいました。イエス様を救い主と信じ受け入れる時に私たちは、この神様の子どもとされ、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」との告白へ導かれます。この新しい年、天と地を造られ、私たちを造られたこのお方の子どもとして、このお方に信頼し、このお方に導かれ、お従いして過ごさせていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)