2023年10月1日 礼拝説教 「誰よりも親しいお方」

聖書:イザヤ書 43章1~4節

Ⅰ.はじめに

 先々週、私は岐阜での「日本伝道会議」に参加しました。そこでは同じイエス様を信じる大ぜいの人々と共に讃美し、みことばに聴き、互いに語り合う恵みを経験しました。そして、先週の日曜夜から私は岡山県蒜山高原での「牧会者と霊性セミナー」に参加しました。そこでは14名という少ない人数の牧師や牧師夫人と共に、静かな場所で、自分のこれまでをふり返ったり、自由な時間を思い思いに過ごしたり、同じみことばを聴いて思いめぐらすという恵みを経験しました。私にとって、この2つの時はとても対照的で、順番はこれでよかったなあとつくづく実感します。日本伝道会議で語られたことを、静かにふりかえることもでき、からだも心も魂もゆっくり休息できたように感じるからです。

 今朝は、「牧会者と霊性セミナー」での神様のみことばの思いめぐらしの恵みを、言わばおみやげとしてお分かちするような思いで、ともにみことばにお聴きしたいと思います。

Ⅱ.みことば

1.みことばの思いめぐらし(イザヤ書  43章1~4節)

 神様のことばである『聖書』を読み、おもいめぐらすやり方には、いろいろなものがありますが、その一つに、約1700年以上前から続けられてきた「レクチオ・ディヴィナ」(聖なる読書)という方法があります。今朝は、それを一緒にやってみましょう。

 まず、からだと心を備えます。ゆったりと落ち着ける場所で、一番楽に座れるようにからだの姿勢などを調整します。また「私は主を待ち望みます。私のたましいは待ち望みます。主のみことばを私は待ちます」(詩篇130:5)と唱えて、しばらく沈黙して待ちます。

 ①読みます(聴きます)・・・今日は、先ほどのみことばを2回ゆっくりとお読みします。その情景をイメージし、そこに自分がいるように想像しながら聴きます。

 ②思いめぐらします・・・そのみことばの中で、心に留まる(触れる)所やことばがあったら、そこを思い巡らします。そのとき、心に浮かんだ思いや気持ち、実際の生活の中の何か思い出されたことなどがあれば、そのことも思いめぐらします。

 ③思いめぐらしたことをメモします

 ④思いめぐらしたことへの応答の祈りをささげます

 ⑤沈黙で祈ります。そののち主の前で休みます

2.あなたを造ったお方(イザヤ書  43章1節)

 蒜山でのみことばの思いめぐらしの時に冒頭の「だが今」ということばにひっかかりを感じたと、あとで私に話してくれた友人がいました。私はそこにひっかかりを感じませんでしたが、人それぞれに違っていてよいのです。「だが今」というのはすぐ前のところとは対照的なことがこれから語られることを示し、すぐ前では「私たちはこの方の前に罪ある者となり、主の道に歩もうとせず」(42:24)と言われています。イスラエルの人々は神様に背いていたが、だが主はイスラエルの人々に心を込めて呼びかける、ということでしょう。

 1節をお読みします。ここで「あなた」と言われているのは直接にはイスラエルの民、そして、今の私たちひとりひとりです。イスラエルの民を形づくったお方、あなたを造ったお方である神様が、こう言われるというのです。

 蒜山で共にこのみことばを黙想した時、私の心に留まったのは「あなたは、わたしのもの」ということばでした。神様がわたしを所有しているというと自由がなくなるような感じですが、私が感じたのは「神様の所有=神様の守り」という安心感であり、神様はそう言われるほどに、だれよりも親しく自分を知っておられるのだということでした。今の自分を形づくったのは、具体的には親かもしれません。しかし、親や家族以上に自分を親しく知って、親しく身近に関わってくださるという意味で「あなたは、わたしのもの」、だから、どんな時でも大丈夫だよと言われているように思えるのです。自分の名を最初に呼んだのは親かもしれませんが、神様は親以上に親しく自分の名を呼んでくださるのです。

3.人生の曲がりかど(イザヤ書 43章2節)

 2節をお読みします。日常生活で水の中を過ぎるというようなことはあまりないでしょう。あるとしたら、水害が起きるとか、非日常的な出来事ではないでしょうか。「水の中」、「川の中」、「火の中」、これらは何を意味しているのでしょうか。ふつうとは違う困難や危険な目に遭うようなことではないでしょうか。ここで、私が思い起こしたのは「曲がりかど」ということばです。辞書を引いてみました。「①道の曲がっているかどの所、②物事の進行の変わり目、転機」とありました。人生の曲がりかど、そこでも「わたしは、あなたとともにいる」とあなたを形造ったお方は言われます。

 私の場合、昨年3月の父の召天、5月の母の召天、その後、弟が脳内出血を起こし入院、そして、今年6月の妻の入院、これから仮住まいへの転居など、人生の曲がりかどかなあと感じています。道の曲がりかどは先が見えません。しかし、曲がるとその先が見えます。

「あなたとともにいる」と言ってくださるお方は、一歩ずつ導いてくださるお方です。

4.ともにいてくださる理由(イザヤ書 43章3~4節)

 以前は神様に背いて従わなかったのに、なぜ、そこまでイスラエルの民のことを思いやり、神様はともにいてくださるのでしょうか?3~4節をお読みします。一言で言えば、イスラエルを愛しているから、私たちひとりひとりを愛しているからです。考えてみれば、ここまで語られてきたのは、まるで恋人への「愛の告白」のようなことばではないでしょうか。あなたが好きだ、愛している、だから、いつも一緒にいる、と主は言われるのです。

 「わたしはあなたの神、主、・・・あなたの救い主」(3節)、「救い主」ということばは『新約聖書』ではイエス様について使われます。イエス様は私たちひとりひとりの背きの罪の身代わりとして、十字架で死んでくださいました。墓に葬られました。しかし、3日目に神様はイエス様を死から復活させたのです。その記念日である日曜日、私たちは共に集まり神様の究極の愛の告白を聞くのです。4節をお読みします。

Ⅲ.むすび

 このみことばの思いめぐらしのあと、ある友人は私に「神様にここまで愛を告白されると戸惑うなあ」ということを話してくれました。わかるような気がします。「そんな資格はないのに、神様に一方的に想われても重いなあ。神様にお返しなんてできないのに」と私も思います。しかし、愛を受ける、受け止めるということでよいのではないでしょうか。これから受ける「聖餐」を、ただ受けるのと同じように。

(記:牧師 小暮智久)