2023年9月24日 礼拝説教 「終わりから始める教会生活」

聖書: エペソ人への手紙 5章26~27節

Ⅰ.はじめに

 先週はどのような1週間だったでしょうか?うれしかったこと、悲しかったことがあったでしょうか?それらを礼拝後に誰かと話したり、聞かせてもらったりする分かち合いをしてみると、お互いがさらに親しくなれるのではないでしょうか。

 私は先週、岐阜で開かれた「第7回 日本伝道会議」に参加しました。主催者発表で参加者約1200名とのこと、初めての出会い、久しぶりの再会など、楽しく有意義だったと感じています。お祈りを感謝します。今回のテーマは「『おわり』から『はじめる』宣教協力」。「おわり」とは次の3つ、①もうあとがない「今」という「おわり」、②世の終わり、ゴールという「おわり」、③開催地の古い呼び名である「おわり(尾張)」、転じて各教会の現場としての「おわり」です。世の「おわり」を見つめつつ、各教会や各教団が互いに伝道の協力を「はじめる」ことができるようにという祈りをもって、各地に派遣されていきました。「教会」というものの「始まり」と、「教会」のゴール、「終わり」はどのようなものでしょうか?そこから、私たちが過ごしている「いま」の教会でのあり方や取り組む課題について見えてくることは何でしょうか?みことばに共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.教会の始まり(エペソ人への手紙 5章26節)

 教会の「始まり」とはいつか?それは約2000年前のペンテコステです。イエス様がすべての人のために十字架で死なれ、葬られ、3日目に復活され、40日後に天に昇り、10日後に聖霊である神様が地上にくだられた日です。以前、イエス様を知らないと裏切ったペテロはその日、聖霊に満たされ、イエス様を人々に証ししました。人々が十字架につけ、神が3日目に復活させたイエスこそが、「旧約聖書」で約束されていたキリスト(救い主)なのだと。人々は心を刺され、その日、3000人が洗礼を受けました。これが「教会」の始まりです。キリストの愛が出発点です。26節をお読みします。「キリストがそうされた」とは、キリストが教会を愛し、ご自分をささげたことです。それは、どのような愛か?イエス様を信じる人々を「きよめて」「聖なるもの」とする愛です。イエス様を信じた人は、「みことば」と「水の洗い」、洗礼によって「きよめられ」、新しく神の子どもとして生まれました。このように教会生活が始まりました。「洗礼によるきよめ」は聖化のスタートです。その人は「聖なるもの」、罪の奴隷から神の所有とされました。これは、私たちの努力によらず、神様の恵みのわざです。だれでも、どんな人であっても、イエス様を信じれば洗礼によって「きよめられ」「聖なるもの」とされ、教会に加えられます。なぜか?キリストがその人を愛し、十字架で身代わりに死なれ、復活されたからです。

2.教会の終わり(ゴール)(エペソ人への手紙 5章27節)

 イエス様を信じ、神様の子どもとされたばかりの人は、生まれた直後の赤ちゃんのようです。右も左もわからず、本当は両親のような保護者が必要な状態です。以前、こんな文章を紹介したことがあります。「教会は信仰を持つまではいろいろなことが赦され、受け入れられ、信仰告白までたくさんの話を聞いてもらえます。洗礼を受けた途端、『おめでとう。あかししましょう。さあ伝道しましょう』と促され奉仕の生活に入っていくのを奨励されます」(松下景子著,『語らいと祈り』,p.78)。ここにギャップがあります。洗礼を受けたばかりの人が戸惑い、疲れ、つまずき、教会から離れてしまう。先ほどの文章は続きます。「洗礼を受け、新しく生まれることができたけれど、今までの古い生き方を体は覚えていて、キリストにある新しい生き方を選び取り、ゆたかな命をいただく生き方が生活に反映していくようにするのは難しいことだと思います」(前掲書,p.79)。するとどうなるか。あきらめや義務的な喜びのない教会生活の原因は、このあたりにあるのではないでしょうか。

 私たちはお互い、立場的には神様の子どもとされても、内面はまだ整えられておらず、心の傷や未解決の問題が残っているのではないでしょうか。どうすればよいか?誰かに聞いてもらい、聞かせてもらう「分かち合い」、内側が整えられるための小グループでの交わりが必要です。「組会」の目的はこれです。私たちの教会でも小グループでの交わりを、工夫してもつ必要があるのではないでしょうか。

 さて、教会の終わり(ゴール)は何か?27節をお読みします。「聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会」、これこそが教会のゴールです。教会はそのスタートにおいても「聖なるもの」、神様のものとされていましたが、それは立場上の「聖なるもの」でした。しかし、イエス様が再び来られ「栄光の教会をご自分の前に立たせる」その時には、教会の一員である自分は、中身も実質的にも「聖なるもの」とされる。これを「栄化」と言います。それはちょうど、妻が最も美しく夫の前に立つ、しみやしわなどが何一つないような状態です。しみやしわとは何か。美容の話ではなく、これはたとえであり、教会のゴール、そこに属する私たちひとりひとりが、最も自分らしく、美しくされる時のことです。しかも、キリストを指す「ご自分」ということばが2回繰り返され強調されています。すなわち、私たちを美しく整え、傷のない栄光の教会として立たせてくださるのは、キリストご自身なのです。今回の日本伝道会議で語られた「終わりの日」の教会の姿とはこれです。ヨハネの黙示録7:9~10をお読みします。民族や文化やことばの違う人々が、違いがありつつ、ひとつとなって神様をほめたたえる様子が「教会」の完成された姿なのです。

Ⅲ.むすび

 「いま」というこの時は、その「終わり」に向かっている途上の時です。私たちの教会も途上にあります。途上には、様々なトラブル、不快なことが「教会」の課題として起こります。たとえば、「教会」は最初、イエス様の弟子たちだけでした。そこに様々な人が加えられますが、ユダヤ人がおもでした。そこにギリシア人やローマ人など異邦人が加わります。お互いにことばも文化も異なる人々ですから、トラブルや不快なことが生じました。「教会なのにどうして、こんな問題が起きるのか」と悩んだかもしれませんが、すべての国の、すべての民族、すべての人々が救いに招かれ、「教会」に招かれている以上、不快なことやトラブルが起きるのは当然です。それは、自分の感覚や考えの狭さに気づき、イエス様の愛の広さを学び、身につける機会となります。「教会」の「終わりの日」、完成の日を待ち望みつつ、「いま」の教会で不快なことを避けずに向き合い、自分とは違う人々と向き合い、自分を知り、イエス様の愛をいただいてともに進むお互いとされようではありませんか。

(記:牧師 小暮智久)