2023年9月17日 礼拝説教 「自分を捨てる」

聖書: ルカの福音書 9章18~27節

Ⅰ.はじめに

 「自分を信じよう」とか「自分をほめてあげよう」と言われる時代です。それだけ、ストレスが多く、自分が痛めつけられることが多いからでしょうか。また、ほかの人と比べられ、ミスのないように気を遣うことが求められ、自信を失い意気消沈することが多い時代だからかもしれません。そのような中で「自分を捨てる」ということばを聞くと違和感を覚える人もあるのではないでしょうか。この教会の礼拝では2017年5月から『聖書』の「ルカの福音書」を少しずつお聴きし、今日は前回7月23日の続きの所です。「自分を捨てる」ということを言われたイエス様とはどんなお方なのか、イエス様が言われた「自分を捨てる」とはどういうことなのか、ともに、主のみことばに耳を傾けましょう。

Ⅱ.みことば

1.イエス様はどんな方か(ルカの福音書 9章18~20節)

 「イエスが一人で祈っておられたとき」(18節)と書かれています。先日、出戸朝祷会では「祈りの人イエス」という印象深い奨励が語られ、ルカ福音書でのイエスの9つの祈りが取り上げられました。祈りを強調しているのが「ルカの福音書」の特徴だと言われます。この時、イエス様は一人で祈られました。ご自分のため、また弟子たちのために祈られたのでしょう。今の私たちのためにも祈っていてくださいます。神の御子イエス様でさえ、あるいは、御子だからこそ、神様との親しい交わりを求めてお祈りされたとすれば、なおさら、私たちも自分のため、人々のためにお祈りする必要があるのではないでしょうか。

 お祈りのあと、イエス様は弟子たちに2つのことをお尋ねになります。お祈りの中で、天のお父様にお答えをいただき、導かれて、お尋ねになったのではないでしょうか。

 最初の問いは18節です。それは、群衆は自分のことをだれだと言っているかという質問です。弟子たちは「人々はイエス様を、バプテスマのヨハネとか、旧約聖書の預言者エリヤなどが生き返ったのだと言っています」と答えます(19節)。2つ目の問いは20節です。真っ先に答えたのはいかにもペテロらしいと思います。「神のキリストです」とは、「あなたこそ神様からつかわされた救い主です」という意味です。これも、イエス様のお祈りに対する神様の答えだったと言えるのではないでしょうか。ペテロが「イエス様こそキリスト(救い主)」と答えられたのは、神様が示してくださったからです(マタイ16:17)。

 今もイエス様は私たちに「あなたは、わたしをだれだと言いますか」とお尋ねになります。私たちは神様に助けられ導かれて「神のキリストです」と答える者でありたいです。

2.イエス様について行くには(ルカの福音書 9章21~27節)

 「イエス様こそ神のキリストです」というのは正しい答えでしたが、イエス様は「このことをだれにも話さないように命じられ」(21節)ました。人々に伝えたらよいのに不思議ですね。なぜでしょうか?それは、このときの人々の「キリスト」のイメージが、パンを増やして生活を豊かにしてくれる人、ローマ帝国の支配から解放してくれる人というもので、罪と滅びから救い出してくださる「キリスト」というイメージではなかったからです。人々の期待や先入観が混乱となり、イエス様のほんとうの働きを妨げてしまう恐れがあり、まだ時ではなかったので、この時のイエス様は口止めされたのではないでしょうか。

 では、ほんとうの「キリスト」とはどんなお方か?22節をお読みします。それは、「人の子」であり、「多くの苦しみを受け」、当時のリーダーたちに「捨てられ」、「殺され」、「三日目によみがえ」(22節)るというお方です。これらのことは『旧約聖書』に予告されていたのですが、当時の人々の「キリスト」のイメージは違っていたのです。

 イエス様は「わたしをキリスト(救い主)と信じるなら、わたしについて来たいと思うなら」と弟子たちに語られます。23節をお読みします。

 イエス様をキリストと信じ、従って行きたいなら、「自分を捨てる」必要があります。「自分を捨てる」とはどういうことでしょうか?自分を捨てるとは、自分を卑しくすること(自己卑下)や自分をいじめることではありません。自分を大切にし、自分を愛しつつできるのがこの「自分を捨てる」ことです。ジョン・ウェスレーは第48番の説教「自己否定」で、自分を捨て、自分を否定するとは「自分の意志が神の意志と折り合わないときに、それを否定すること」と述べています(ジョン・ウェスレー説教53(下)p.377)。たとえば、神様は収入の10分の1を献金するよう命じておられるのに(マラキ3:10)、「10分の1なんて多すぎる。20分の1でいいはずだ」とするなら、自分を捨てていないということになります。

 「日々自分の十字架を負って」(23節)とイエス様は言われました。「自分の十字架」とは、自分がそこで死ぬための十字架です。迫害や殉教ということだけではないでしょう。イエス様に従いたいなら、イエス様のための苦痛をあえて自分が引き受けていく必要があるのです。しかも「日々」です。これは「ルカの福音書」だけにある表現で、私たちがイエス様のために苦痛を引き受ける場面は、日々の生活の中にあるのではないでしょうか。

 24節はどんでん返しを告げています。「自分を捨てない」で、自分の考え方をどこまでも押し通して「自分のいのちを救おう」とする人は「それを失う」。反対に、イエス様のために「自分を捨て」「十字架を負って」、「自分のいのちを失う者」は「それを救う」のです。

 25節は「損得計算書」です。ある人が「全世界を手に入れても」、イエス様をキリストと信じないで、自分そのものを失ったら、その人には何の利益が残るでしょうか。

 キリストを信じ、自分を捨てる人は、キリストを恥じることをしないでしょう。キリストとそのことばを恥じる人はどうなるでしょうか?26節をお読みします。「人の子も・・・やって来るとき」とは「再臨」のことです。キリストへの態度には報いがあるのです。

 27節の意味はむずかしいと言われています。「ここに立っている人たち」とは弟子たちのこと、「神の国を見る」とは「再臨」や「新しい天と地」のときのことではなく、迫害の時代を通って、殉教せずにキリスト教会が確立していくのを見る人があるという意味ではないでしょうか。その意味では、全人口の1%の壁を越えない日本のクリスチャンが、やがて増えていく時代が来るという希望の約束として読むことも許されるかもしれません。

Ⅲ.むすび

 イエス様を信じる前の私たちは、自分がどう考え、判断するかがすべてでした。イエス様を信じたとは、イエス様はどう考え、どう判断するかを、自分の考えや判断よりも優先する生き方、生活のしかたです。「自分を捨てる」とは、イエス様のお考えや判断を優先することです。たとえば、「主の日」と呼ばれる日曜日の過ごし方とか、お金の使い方の優先順位とか、主が望んでいることは何かとお聞きし、選び取る生き方です。そのようにしてイエス様について行く生き方の報いは、想像以上に豊かな祝福です。

(記:牧師 小暮智久)