2023年9月10日 礼拝説教 「主のあわれみ」

聖書: 創世記 19章15~26節

Ⅰ.はじめに

 自分のために誰かがお祈りしてくれたことがありますか?親がイエス様を信じていたら、親がいつも祈ってくれたかもしれませんね。イエス様を信じている友だちが祈ってくれたという人もおられるでしょう。私の家のとなりに住んでいた宣教師はどこに行っても、となりの家の人がイエス様を信じて救われるようにとお祈りしたのだそうです。そのお祈りに神様はこたえてくださって、私もイエス様を信じて救われたことを感謝しています。

 子どもと大人の合同礼拝では、教会学校での『聖書』の箇所からみことばを聴いています。教会学校は今「アブラハム」というテーマで、「信仰の父アブラハムの歩みにならう」ということが目標です。アブラハムはおいのロトという人のためにお祈りしました。神様はそのお祈りにこたえてくださり、ロトとその家族にあわれみを注いでくださいました。神様のあわれみとは、どのようなものだったでしょうか?みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.お祈りへの答え(創世記 19章1~14節)

 アブラハムのおいのロトが住んでいたのはソドムという町でした。その近くにはゴモラという町もありました。子どものころ、ソドムとゴモラと聞いて怪獣の名前みたいだと思ったのを覚えています。ゴジラとモスラのまざったような名前だと思ったのです。神様はこのソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしておられました。なぜか?神様を認めず、人々が自分のしたい放題で、おそらく盗みや殺人なども多く、乱れ切った町だったからです。神様はそのことをアブラハムに知らせました。アブラハムはおいのロトやその家族が滅びないで、救われるようにと祈りました。救いとは、滅びないで助け出される切実なものです。

 「その二人の御使い」(1節)とは、アブラハムにソドムの滅びを告げた御使いです。1節をお読みします。二人の御使いがソドムに、ロトに会いに来たのはなぜか?ロトとその家族を滅びから救い出すためでした。つまり、これは、アブラハムのお祈りに対する神様の答えなのです。ロトは御使いたちを自分の家に迎えます(2~11節)。御使いはロトに言います。12~13節をお読みします。「家族や親族をこの場所から連れ出しなさい。神様がこの場所を滅ぼそうとしておられるからです」と言ったのでした。ロトはどうしたか?娘の夫たちに言いましたが、夫たちは本気にしませんでした(14節)。ロト自身も本気ではなかったかもしれません。あなたがロトだったら、どうしますか?滅びると言われたら、救われる必要があります。『聖書』のことばを本気で、自分のこととして聴いているでしょうか。

2.あわれみによる救い(創世記 19章15~22節)

 夜明けごろ、御使いはロトを急がせて言いました。ということは、ロトはひと晩、迷ってためらっていたのでしょうか。15節をお読みします。それでも、まだロトはためらっていました。御使いはどうしたか?16節をお読みします。「その人たちは、・・・手をつかんだ」(16節)。これが、彼に対する「主のあわれみ」、神様が同情して、その人の身になって助けようとする心のあらわれです。神様から離れて滅びるはずだったのに、イエス様を信じて救われたということに、あなたは、「主のあわれみ」をどのように感じますか?私の場合、小学4年生の時、教会で「イエス様を信じて、天国に行きたい人は手をあげて」と言われたときです。あの招きは、神様が私に手を伸ばしてくださった瞬間だった。私は滅びたくなかったのと、天国に行きたかったので、手を挙げて、その日、イエス様を信じたのでした。イエス様を信じて従う歩みは「いのちがけ」、本気です。17節をお読みします。それでもロトはあそこまで行けませんと言い訳をしました(18~20節)。神様はロトの言い訳を聞いてくださり、滅ぼすのを待ってくださいました(21~22節)。ここにも「主のあわれみ」があらわされています。イエス様を信じてからも、あわれみは注がれているのです。

3.うしろをふりかえった人(創世記 19章23~26節)

 ロトは自分で願った町に着きました(23節)。その時何が起きたか?24~25節をお読みします。神様はソドムとゴモラの町と、町のすべての人々と、植物までも滅ぼされました。「草花や木まで滅ぼさなくてもいいのに」と私などは考えますが、神様が滅ぼすと言えば徹底的だなあと実感します。「旧約聖書」の神様は厳しくてこわいけど、「新約聖書」のイエス様はやさしいというイメージがあるかもしれません。しかし、「新約聖書」でもイエス様の「宮きよめ」と言われる場面(マタイ21:12,13)は厳しいお姿ですし、土地を売ったお金の一部を全部だとうそをついた人たちはその場で死んでしまいました(使徒5:1~11)から、そうとも限りません。「旧約聖書」でも「新約聖書」でも同じ神様です。

 今日の最後のことばは印象に残ります。26節をお読みします。「うしろを振り返るな」と御使いに言われたのに、なぜ、ロトの妻はふり返ったのでしょうか。うしろで大きな音がしたり、火が見えたりして、気になったからかもしれません。あるいは、自分の家や持ち物を惜しく思ったのかもしれません。今の私たちにとって、「ロトの妻のようにふり返る」とはどんなことでしょうか?それは、イエス様を信じる前の生活に戻ろうとすることです。あるいは、まわりのことやほかの人が気になって、イエス様に従わなくなることです。私たちもうしろが気になるかもしれませんね。ふりかえらないためにはどうしたらよいか?当たり前ですが、「前を見続けること」です。イエス様を見つめ続けることです。

Ⅲ.むすび

 イエス様を信じて救われた人は、自分への「主のあわれみ」を心から感謝しましょう。そして、うしろをふり返らずにイエス様に従い続けられるように、自分のために「主のあわれみ」を祈り求めましょう。また、自分の身近な家族や友だちがイエス様を信じて救いに導かれるように「主のあわれみ」を祈り求めましょう。教会のとなり近所や近隣地域の人々が教会に来られ、イエス様の救いを受けられるように「主のあわれみ」を祈り求めましょう。イエス様をまだ信じておられない方にも「主のあわれみ」は今日も新たに注がれています。イエス様を救い主と信じ、救われようではありませんか。

(記:牧師 小暮智久)