2023年9月3日 礼拝説教 「あこがれ」

聖書: ヨハネの手紙 第1 3章1~3節

Ⅰ.はじめに

 牧師の夏季休暇の間もお祈りいただき、ありがとうございます。リフレッシュさせていただき、ここに戻って来ることができ、感謝しています。
私たちの教会の今年度のテーマは、「キリストのからだである教会」です。先ほど、讃美歌355で共に歌いましたように、「主を仰ぎ見て」、イエス様を救い主と信じると、私たちは新しくされ、神様の子どもとされ、「みくに(天国)の世継ぎ」とされ、神様の御子キリストのからだと言われる「教会」の一員とされます。自分が「キリストのからだ」の一部とされたというのは、本当に驚くべきことではないでしょうか!自分が大会社の社長や総理大臣の子どもとされるのもすばらしいかもしれませんが、この世界を造られた神様の子どもとされたというのは、本当に驚くべき恵みではないでしょうか!
今朝は、この休暇中に心に留まったみことばを分かち合い、ともにお聴きしたいのです。

Ⅱ.みことば

1.今すでに(ヨハネの手紙 第1 3章1~3節)

 先ほどの短い『聖書』の箇所には、「私たちが(は)神の子ども」という表現が3回繰り返されています。1節に2回、2節に1回です。これほど繰り返されているのは、著者が強調したかったからではないでしょうか。イエス様の弟子であるヨハネは、今の私たちにもいつでも、どこでも忘れないように、「私たちは神の子どもだよ」と繰り返しているのです。
 神様に造られたのに、神様から離れてしまい、神様のことがわからなくなり、神様に背いてきた、そんな私たちが、神様の子どもとされたのは、なぜ、どのようにしてでしょうか?1節をお読みします。それは「御父」である神様が、私たちひとりひとりを愛してくださったからです。神様はどんな愛を、私たちに与えてくださったのでしょうか。それは「そのひとり子をお与えになったほど」の愛、イエス様を私たちのためにこの世に与えてくださったほどの愛です。イエス様は、神様から離れ、背いた私たちの身代わりに、十字架で死なれ、3日目に復活されました。これほどの犠牲と、すばらしいことを、わざわざ私たちのためにしてくださった愛です。神様の愛がどんなにすばらしいか、考えましょう。
 神様に愛され、イエス様を信じることにより神様の子どもとされた私たちは、これからどうなるのでしょうか?2節をお読みします。自分が死んだあとのこと、復活のからだを与えられることなど、私たちには『聖書』に書かれている範囲のことしか明らかにされていません。ただ、はっきりしていることは、「キリストが現れたとき」、再臨の時に、自分が「キリストに似た者になること」です。これは顔や体つきなど外観のことではないでしょう。みんなが同じイエス様の顔や体つきになったら、とても奇妙で気味が悪いです。私たちそれぞれがその人とわかる顔や体つきで、内面がキリストに似た者になるのです。
 では、そのように自分がキリストに似た、すばらしい者になる望みを抱く私たちは、今この世でどう過ごすか?3節をお読みします。今日は特にこの3節に注目しましょう。

2.あこがれと日常の生活(ヨハネの手紙 第1 3章3節)

 イエス様を信じて神の子どもとされた私たちは全員、キリストが再び来られる再臨の日に、「キリストに似た者になること」(2節)が確実です。ならば、今の日常をどう生活しますか?自分のしたいことを好き勝手にして過ごしますか?あるいは、何もしませんか?
 私が初めてハイキングに行ったのは小学6年生ごろ、親と一緒でした。だんだんと山が好きになり、友だちとまたはひとりで、高い山にも登るようになりました。あるときから日本アルプスの槍ヶ岳にあこがれるようになり、いつか登りたいと思うようになりました。それで、還暦を過ぎても体力を維持するため、日常の生活で運動しようと思うようになり、朝は自分なりの短い体操と散歩、週1回程度サーキットトレーニングをしています。今年の夏季休暇の中で、この槍ヶ岳に登ろうと計画し、準備して出かけました。あこがれや目標があると、そのために自分にできることをしようと思うのは自然ではないでしょうか。
 自分は再臨の日に「キリストに似た者になる」と知るなら、神の子どもとして、神のひとり子イエス様のようになりたいとあこがれを持つなら、「キリストが清い方であるように、自分を清く」(3節)するというのは自然な姿ではないでしょうか。具体的には、神様に喜ばれないことは遠ざけ、「恵みの手段」(聖餐、礼拝、聖書、祈り、交わりなど)を用いて、それらを行なうことで、自分を清くするために自分にできることをすることができます。

3.あこがれと困難や危機(ヨハネの手紙 第1 3章3節)

 あこがれを持っていても、持っているからこその、困難や危機というものがあります。今回私は、ゆとりのある日程で槍ヶ岳を目指す予定を立て、背負う荷物も吟味して出かけました。天気も良く順調でしたが、本格的な登りが始まる所にある山小屋まであと1時間の所で突然、片方の登山靴の靴底が完全にはがれてしまったのです。何とか山小屋にはたどり着きましたが、小屋の管理人にはこれ以上高い所に登るのは危険だと止められました。選択肢は2つ。それでも登るか、それとも下山するか。私は下山を選びました。管理人の方はすべり止めのついたスニーカーを貸してくださり、それで無事下山できました。思いがけない危機と挫折でした。その中で人の温かさが身にしみました。私の心には、槍ヶ岳へのあこがれがさらに強くなりました。状況などが許せば再挑戦したいと思っています。
 神の子どもとされた私たちの日常にも、いろいろな困難や危機があるのではないでしょうか。イエス様のようになりたいとあこがれを持って、『聖書』を読もうと思っても実際には読めなかったり、教会の礼拝に行こうとした時に限って用事が入ったり、教会やキリスト教に対する悪口などが耳に入ってきたり、ということがあるかもしれません。そんな困難や危機によって挫折してしまった時、どうしたらよいでしょうか?「自分なんてどうせダメだ」といじけるのでなく、「イエス様のようになりたい」というあこがれがさらに強くなるためには、どうしたらよいのでしょうか?挫折した現実を認め、そこから始めるのです。『聖書』を少しでも読む工夫を考えたり、その用事は午後にしてもらえないか交渉したり、困難を自分ひとりだけで悩まないで同じ教会の誰かに話してみることもできます。

Ⅲ.むすび

 今日はこのあと聖餐を受けます。神様は聖餐によって「イエス様に似た者になりたい」というあこがれを強め、実際にそうなれるように助けてくださいます。イエス様への「あこがれ」は、「飢え渇き」と言ってもよいでしょう。その動機は純粋な「愛」です。御父に愛され、神の子どもとされた私たちは、キリストへのあこがれ、飢え渇き、キリストを愛する愛を強められ、深められて、再臨の日を待ちましょう。

 (記:牧師 小暮智久)