2023年5月28日 礼拝説教 「教会の出発点」

聖書:使徒の働き 2章1~13節

Ⅰ.はじめに

 新年度が始まって2ヶ月が過ぎようとしています。どのような毎日でしょうか?この頃は暑い日があるかと思えば、寒いと感じる日もあり、気温や天気の変化が目まぐるしいですが、体調はいかがでしょうか?何か、お手紙を書く際の書き出しの「あいさつ」のようになりました。キリスト教会の暦で言えば、今年は新年度の最初の日曜日から「受難週」が始まり、4月9日(日)が「イースター」でした。私たちひとりひとりのためにイエス様が十字架で死んでくださり、3日目に復活されたことを、特に覚えて始まった新年度でした。そして、今日が「イースター」から50日目、「聖霊降臨日」(ペンテコステ)です。この「聖霊降臨日」という日は、キリスト教会がスタートした日、教会の出発点と言える日です。今、世界中に広がっているキリスト教会はどのようにスタートしたのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.その日、何が?(使徒の働き 2章1~4節)

 それはいつか?「五旬節の日」(1節)とあります。これはユダヤの「過ぎ越しの祭り」から50日目に行なわれる収穫を祝う祭りの日で、当時の一般的なことばであるギリシア語で50を意味する「ペンテコステ」(「ペンテ」は5。米国の国防総省の建物は上から見ると五角形でペンタゴン)と言われる日です。その日は、イエス様の復活から50日目でした。正確な年代はどうか?「西暦」はキリストの誕生の年から数えますが、数年の誤差があるそうで、イエス様の誕生は紀元前7~4年の間と言われています。イエス様が十字架で死なれ、復活したのが33歳頃と推定されるので、それは西暦26~29年頃、その年の春、復活から50日目ということは、今年が2023年ですから、ほぼ2000年前と言えるでしょう。

 何が起きたのか?1節をお読みします。「皆」とはイエス様の弟子たちや母マリア、120人ほど(使徒1:15)か、もう少し少ないかもしれませんが、「集まっていた」ことが大事です。イエス様の復活が日曜日だったのを記念して、彼らは日曜日ごとに集まっていた。50日目も日曜日です。彼らは、集まって主を共に礼拝していた。2~3節をお読みします。天から激しい風が吹いてきたような響きが起こりました。風が神の霊、聖霊を象徴していることは『旧約聖書』の時代に、預言者エゼキエルに告げられた神様の約束(エゼキエル37:9,10)でも言われていました。その約束が実現したのです。また、炎のような舌が分かれて現われ、ひとりひとりの上にとどまりました(3節)。4節をお読みします。彼らは聖霊に満たされ、様々な国の人々にわかることばで、神様のみわざを語り始めたのです。

 これが、キリスト教会の出発点です。弟子たちが会議を開いて「教会をつくろう」と決めて始めたのではないのです。まず、父なる神様の約束(エゼキエル37:9,10、ヨエル2:28)があり、次に御子イエス様の教会設立宣言があり(マタイ16:18)、神様の約束通りに聖霊である神様が来られ、教会はスタートしました。教会の出発点には父、御子、聖霊の三位一体の神様が関わって主導され、人々がそれに応じたのだということを覚えましょう。

2.教会に加わった人々(使徒の働き 2章5~13節)

 そこへ「大勢の人々が集まって来た」(6節)とあります。案内のチラシを配ったわけでも、今のようにSNSで情報を拡散したわけでもありません。その理由は、「この物音がしたため」(6節)とある通り、激しい風のような響きという神様に発端がある物音でした。 

 集まって来たのはどんな人々か?それは、西アジア、ユダヤの都市エルサレムに住む「敬虔なユダヤ人たち」(5節)で、「天下のあらゆる国々から」(5節)来た人々でした。元々のユダヤ人もいれば、様々な国出身でユダヤ教を信じるようになった人々など、育った環境や文化や母国語も違う、いろいろな人々です。彼らは生まれた国のことばがそれぞれ違っているのに、イエス様の弟子たちが自分たちにわかることばで話すのを聞いてあっけにとられます(6節)。今のように通訳してくれる機械がないのに、彼らは驚き、不思議に思います。7~8節をお読みします。彼らの生まれた国とはどこか?それは9~11節にありますが、かなりの広がりです。地図で確認していただくとわかりやすいですが、西アジア、今のトルコあたり、少し東のイランやイラクあたり、さらにはエジプトなどアフリカも含まれます。

 彼らの反応はどうだったか?とにかく驚いた(12節)、また、あざける人々もいた(13節)というのは、2000年もあとの私たちが読んでも、よくうなずけるのではないでしょうか。

 その人々に、イエス様の弟子のペテロは語りかけます。彼の初めての伝道説教です。あるいは、キリスト教会にとって世界初の伝道集会だったと言えるかもしれません。その内容が14節以降に書かれています。注目すべきはこの表現、「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、・・・」(14節)でないでしょうか。彼の伝道は個人の活動ではありません。「十一人とともに立って」とある通り、教会としての伝道であって、ペテロの声は教会のことばを代表したものなのです。その意味で、教会と関係のない個人伝道というものはあり得ないのではないでしょうか。一人のクリスチャンが、誰か個人に伝道したとしても、その一人のクリスチャンも洗礼を受けていればどこかの教会に属しているのであって、その属する教会に支えられ、その教会とのつながりの中で伝道をしているのです。

 ペテロを代表とする最初の教会の伝道説教を聞いた人々はどうなったか?あざけっていた人々が全員、素直に耳を傾けたわけではないかもしれませんが、多くの人は心を刺された(37節)。みことばの説教は、時に心を刺す。聞いた人がそのままではいられないように心を動かす。「私たちどうしたらよいでしょうか」(37節)という応答を引き出したのです。38節をお読みします。「悔い改め、イエス様を信じて、洗礼を受けよ。そうすれば、賜物として聖霊を受ける」というペテロの招きに応じてその日、イエス様を信じ、洗礼を受けたのです。その数、およそ3000人(41節)。私は洗礼式に何時間かかったのかなあと、余計なことを考えてしまいますが、大事なことは個人の救いは必ず教会とつながっているということです。イエス様を信じるということは、単に個人の内面の問題ではないのです。「仲間に加えられた」(41節)という表現は重要です。信じたということは、キリストの仲間に加わったということ、神様の家族に加えられたという教会との絆が結ばれたということです。家族というのは夫婦のお互い以外は選べません。兄は弟や妹を選べず、その逆もしかり。さきに神様の家族となっている先輩クリスチャンと、あとから家族に加えられたクリスチャンもお互いに選べない。違いがあり,好き嫌いがあり、苦手な相手があって当然。でも、同じ父なる神様の子どもであることには違いはない。要は肉親の兄弟姉妹の間でもそうかもしれませんが、付き合い方や距離の取り方には工夫や忍耐が必要なのでしょう。

Ⅲ.むすび

 私たちの救いのためには、御子の降誕が父なる神様のお心の中心でした。御子キリストの教会の出発点の中心は、聖霊なる神様の降臨です。キリスト教会は創立ほぼ2000年。私たちの教会もその一部として生かされています。自分にも,となりの人にも、同じ聖霊が与えられていることを覚えて、聖霊に導かれて今週も歩みましょう。

(記:牧師 小暮智久)