2023年4月30日 礼拝説教 「焼き魚と復活のからだ」

聖書: ルカの福音書 24章36~43節

Ⅰ.はじめに

 4月最後の日を迎えました。この1か月間はどんな時だったでしょうか?「あっという間だった」「とっても疲れた」という方もあるでしょう。あるいは「とてもヒマで退屈だった」「緊張と不安の日々だった」「苦しくてつらかった」という方もあるかもしれません。私たちそれぞれの日々の経験やその時の感情は違っていて、その人独自のかけがえのない尊いものだと思います。それを聞かせていただいた時に、ことばだけでは伝わらないものもあるでしょうし、私の聞き方の偏りや理解力の乏しさなどのゆえに、その出来事や気持ちを充分には理解できない面があるということを謙虚に認める必要があると感じています。

 私たちはイエス様の復活を祝うイースター(今年は4/9)のあとの季節を過ごしています。イースターまでは受難節(レント)と呼ばれ、イエス様の十字架を思い巡らして4週間を過ごしますが、イエス様の復活を思い巡らすのがイースター1日だけではもったいないように思います。教会が2000年間の歴史の中で、イースターから聖霊降臨日(ペンテコステ、今年は5/28)までを復活節と呼ぶようになり、イエス様の復活の意味を思い巡らしてきたことは意味深いのではないでしょうか。『聖書』の4つの「福音書」の復活の記事には違いや特徴があります。同じ出来事を見ても、見る人によってその感じ方や伝え方が違うのは、記事がいい加減なのではなく、出来事が本当でリアルであることの証拠だと言えるのではないでしょうか。医者であり画家とも言われるルカが伝えるみことばを聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.思いに寄り添うイエス様(ルカの福音書 24章36~40節)

 時は約2000年前、イエス様が復活された日曜日の夕方から夜です。所は西アジア、当時の地中海世界を支配するローマ帝国の東端ユダヤ州の都エルサレムで、イエス様の弟子たちがいた部屋です。彼らがペテロの報告を聞き、「イエス様は本当によみがえったんだ」と話しているところへ、クレオパという弟子ともう一人がエマオ村の近くから引き返して来て「復活されたイエス様と会った」と話し始めます(ルカ24:33~35)。弟子たちの報告会、復活されたイエス様についての「証し会」と言えるでしょうか。これは、ヨハネの福音書の20章19~25節と同じ場面でしょう。弟子のトマスだけはいなかったと思われます。

 何が起きたか?36節をお読みします。今も復活されたイエス様は、ふたりでも三人でも、イエス様の名において集まっているところに、親しくご臨在くださいます(マタイ18:20)。

 この時の弟子たちの感情や思いは、どんなふうだったか?37節をお読みします。おびえて震え上がるほどの「こわい!」という気持ちでしょう。「幽霊だ」と思ったのです。当時のユダヤ地方でも「幽霊」という存在は考えられていたようです(『聖書 新改訳2017』の37節の脚注を見るとマタイ14:26,マルコ6:49に「幽霊」という単語があるとわかります)。

 幽霊を見ているのだとおびえる弟子たちに対して、イエス様はどうされたか?38~40節をお読みします。叱りつけず、強引に無理やり説得せず、彼らの感情や思いに寄り添われたのです。「よく見なさい」と視覚に訴え、「さわってごらん」と触覚に訴え、自分で確かめるように促されたのです。40節は前の「新改訳」では写本上の証拠により本文から省かれ脚注で説明がされていましたが、「新改訳2017」では本文に入れられました。おそらく聖書学の進歩によるのでしょう。学生時代の私は、すでにイエス様を信じていましたが、『聖書』について様々な疑問(天地創造や処女降誕や復活など)をもち、自分の将来について不安や恐れをもっていました。同じ教会には同じ年代の人がいなくて、あまり話し相手がいませんでした。そんな私にとってhi-b.a.(高校生聖書伝道協会)のキャンプや集会、教団のキャンプ、大学の聖書研究会(ヘボ研)の交わりは貴重でした。同年代の他教会のクリスチャンに疑問をぶつけ、不安を聞いてもらいました。また、それらのテーマを扱った本(いのちのことば社等出版)に関心をもって読みました。今振り返ると、様々な人との交わりや本との出会いは、イエス様が自分の疑問や不安に寄り添ってくださった恵みだと思います。

2.焼き魚を食べるイエス様(ルカの福音書 24章41~43節)

 喜びのあまり、ほっぺたをつねるほどに不思議がる弟子たちの姿(41節)は当然です。そんな弟子たちに「何か食べ物があるか」と主は言われます(41節)。夕食の残りでしょうか、焼いた魚の一切れが差し出されると、イエス様はそれを食べられました(42~43節)。「霊」にはからだがなく、物を食べることができないというのは世界共通でしょうか。当時のユダヤでも物を食べられるのは「生きたからだ」の証拠だったのでしょう。復活後のイエス様が、ごく日常の食べ物、焼き魚を食べられた。実に印象的な出来事ではないでしょうか。

 しかも、単なる過去の出来事ではありません。イエス様の「復活のからだ」は、将来私たちに与えられる「復活のからだ」を指し示しているからです。それは、世の終わりにイエス様が再び来られたのちに始まる「新しい天と地」、一般的に天国と言われる所に住む時の私たちのからだです。人がやがて主のもとに召された時、今のからだは火葬にされますが、イエス様を信じている人は誰でも、イエス様の再臨の日に「復活のからだ」を与えられて復活します。これが「使徒信条」で毎週告白する「身体のよみがえり」です。将来の私たちの復活の初穂として、イエス様は復活されました(Iコリント15:20)。ですから、イエス様の「復活のからだ」は、私たちの将来の「復活のからだ」の性質を示していると言えます。復活後のイエス様が弟子たちにわかったように、「復活のからだ」はお互いに会った時にわかるのです。また、「復活のからだ」は触れることができ、食べ物を食べられるのだということもわかります。今のからだと違うのは、どうやら瞬間移動や壁を通りぬけることが可能なようです。そうでありながら、ふわふわして透き通った霊ではありません。

 このことを私の幼なじみが翻訳した『天国に行く前に読むと楽しくなる不思議なフシギな天国ガイド』で、カトリック教会の文筆家のアンソニーさんは『聖書』に基づいて天国(新しい天と地)の楽しさを強調し、そこで与えられる「復活のからだ」をこう表現します。「天国では・・もう欲望に翻弄されることなどない。だから、天国で何かを食べるとき・・その目的は、食べ物の味を純粋に楽しむことで、生きるために必要な栄養を摂取することではなくなる」(p.39)。そして、自分が喜びとする仕事を終えたら、ローマのカフェで一休みかスイスアルプスでスキーもいいなと、自由にどこへでもすぐに行けて楽しめるのが「復活のからだ」だと描写しています。「復活のからだ」のすばらしさは想像を超えます。

Ⅲ.むすび

 弟子たちの恐れや疑いに寄り添われたイエス様は、今の私たちの弱さや苦しみに寄り添ってくださいます。イエス様の復活は、私たちがやがて新しい地に立つ時に与えられる「復活のからだ」の初穂、見本です(Iコリント15:20)。あとで讃美歌354番を歌います。「我らは主のもの」と繰り返されます。イエス様によって我らは主のもの。主のものである自分の今の労苦や苦しみなどの経験は必ず報われ、新しい地での生活で新たな意味をもつようになります。主のものである自分が今の地上でしたことや作ったものはムダにならず、新しい地では新しくされて存在するでしょう。Ⅰコリント15:58をお読みします。完全なねぎらいと復活の確約があるゆえに、いつも主のわざに励みましょう。

(記:牧師 小暮智久)