2023年4月23日 礼拝説教 「失望した時」

聖書: ルカの福音書 24章13~17節

Ⅰ.はじめに

 新年度が始まり、しばらくたちました。新しい学校、新しい職場など、環境が変わった方もおられるでしょうか?期待していた通りだったという方もあれば、実際は思っていた通りではなくてがっかりしたという方もあるかもしれません。「新年度だから、心機一転」と多少は張り切っていたのに、そろそろ息切れしてきたなあと感じてはいないでしょうか。あるいは、新年度と言っても特に変化はないし、そもそももともと息切れしているし、毎日がつらくてたまらないような感じでしょうか。失望したくないから、何にも希望をもたず、期待もしないことにしているという方もあるかもしれません。周囲を見ても、自分を見ても希望をもてないような時、どうしたらよいのでしょうか?みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.イエス様のふたりの弟子(ルカの福音書 24章13~17節)

 「ちょうどこの日」(13節)とは、今から約2000年前、西アジアのユダヤの都エルサレムでイエス様が十字架で死刑になって3日目の日曜日。「イースター」と呼ばれるようになる日曜日の午後の出来事です。イエス様のふたりの弟子が、エルサレムからエマオという村に向かっていました(13節)。今ではエマオがどこかよくわからないようですが、エルサレムから西へ11kmほど行った所かと言われています。エマオという地名は「温かい泉」「温かい井戸」という意味だそうです。私たちの教会があるこの「湯里」という町も昔、井戸から温かい「湯」が湧き出た「里」と言われており、近くの神社にその「井戸」だと言われる所が残っています。エマオと「湯里」は似ているなあと親しみを覚えています。

 ふたりの弟子はエマオに向かいながら「これらの出来事」(14節)を話題にしていました。それは、イエス様の十字架での死とお墓に葬られたこと、今朝そのお墓に行った女性たちが「イエス様は復活した」と聞いたことなどでしょう。「わけがわからんなあ」と話していると、そこにイエス様ご自身が近づいて来て一緒に歩き始めます(15節)。でも、ふたりにはそれがイエス様だとはわからない(16節)。イエス様はどうされたか?17節をお読みします。なぜイエス様はこの時、「わたしは復活したんだよ」と言わなかったのでしょうか。

2.見知らぬ人との対話(ルカの福音書 24章18~27節)

 イエス様の弟子は12人の「使徒」以外にもいました。この時の弟子の一人はクレオパという名前で「最近のトップニュースを知らないのですか」と聞き返します(18節)。先ほどから一緒になった見知らぬ人が「どんなことですか」(19節)と聞くので、「知らないなら教えてあげよう」と何か見下すような感じで答えているように私には思えて、とてもこっけいに感じるのですが、彼らは「イエス様のことです」(19節)とご本人に話し始めます。

 ふたりの弟子が言ったのはどんなことか?19~24節をギュッとまとめると「イエス様こそが救い主だと期待していたのに、十字架で死刑にされてしまって失望しました。その上、仲間が今朝お墓に行くとご遺体はなく、イエス様は生きていると告げられたと言うのです」という内容です。「もう、何がなんだかわからないのです」と言ったところでしょうか。

 そこでイエス様はどうされたか?25~27節をお読みします。「モーセやすべての預言者」(27節)という言い方は『旧約聖書』のことを指す当時の表現です。この時イエス様は「ご自分について聖書全体に書いてあること」(27節)を話しました。彼らは言わば「キリスト(救い主)とは」という『聖書』からの説教をイエス様から直接聞いたことになります。

3.見知らぬ人をひきとめた時(ルカの福音書 24章28~35節)

 ふたりと見知らぬ人は、エマオ村の近くまで来ました。もう日が暮れかけています。見知らぬ人はもっと先まで行きそうです。そもそもイエス様はこの時、エルサレムのお墓からどこへ行こうとされていたのか。エマオがエルサレムから西へ11kmだとすると、そのさらに西は地中海で、その途中に目的地は見当たらないように思えます。このふたりと話すのが旅の目的だったのか。だとすると、ふたりを残して先に行こうとするのはなぜか。

 彼らは、この見知らぬ人を引きとめます。29節をお読みします。あとで歌う讃美歌39はこの場面ですね。ここが大事なポイントではないでしょうか。自分たちが失望していると認める。讃美歌39の1節で言えば「わがたま(わが魂)はいとさびし」と認める。その失望や寂しさを自分では解決できないと認めて、この人ともっと一緒にいたいと招き入れる。

 「イエス様を信じること」は大事ですが、「信じたあとの自分のあり方」はもっと大事です。「自分の救いを達成するよう努めなさい」(ピリピ2:12)とは誤解されやすいみことばですが、救われて神様の子どもとされた恵みを、「ちょろっ」と少しだけでなく「目いっぱい」に充分に受け取って、神様に造られた時の本来の自分にまで回復することが「救いを達成すること」と言えるでしょう。その助けの一つとして私は友人たちと月に一度「信仰の12ステップ」に取り組んでいます。そのステップ1は「生活のある面では、私たちは無力であり、時には罪を犯し、生活管理ができないことを認める」というものです。先週私は、自分の感情に対して無力だということを経験しました。車を運転していて交差点で信号が青に変わったのをちょっとの間気づかずにいたら、うしろの車にクラクションを鳴らされ、怒りの感情がわいたのです。仕返しをしたくなるほどに怒りがわいてきて自分でもびっくりしました。これがエスカレートすると「あおり運転」というものを自分もしてしまうかもと思いました。怒りが罪とは限りません。正当な怒りもあるでしょう。感情や気分も罪ではなく人間らしさです。怒りとかうらみとか憎しみとか、寂しさとかむなしさとか抑うつとか、感情や気分は自分で管理できそうで、管理できない面があると認める時、そこからの回復が始まります。自分がいやされるためには、自分には疲れや何らかの傷や居心地の悪さなど、神様に創造された時の本来の自分ではない面があると認める必要があります。

 ふたりはこの人と一緒に食事をしようとする。食事の場面というのは『聖書』で重要な意味を持つようです。それは「交わり」というものの大切な場面のひとつです(もちろん一緒の食事だけが「交わり」のすべてではありません。「高所恐怖症」があるように「会食恐怖症」というものもあるので強制してはいけません)。その時、何が起きたか?30~31節をお読みします。「彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」(31節)のです。彼らは「私たちの心は内で燃えていた」(32節)と振り返り、すぐにエルサレムへ取って返し、復活の主とお会いしたと使徒たち11人と仲間たちに証ししたのでした(33~35節)。

Ⅲ.むすび

 期待がはずれて失望した時、望みや目指す方向を見失い疲れやむなしさを覚える時、自分に近づき、寄り添い、歩調を合わせてくださるイエス様がおられます。自分はイエス様に覚えられているほどに価値があり、しかも失望や寂しさに対して無力であることを認めましょう。無力さを認めたその場面でイエス様はお働きくださいます。

(記:牧師 小暮智久)