2023年4月2日 礼拝説教 「神様、どうして?」

聖書: マルコの福音書 15章24~37節

Ⅰ.はじめに

 「いやなことが次々とあるのは、なんで?」と思うことがあるでしょうか。学校に行ってから忘れ物に気づく。体育の授業は苦手な飛び箱(私は運動が全般的にダメでした)。うまく飛べず、痛い思いをする。その上、意地悪な子に体操着とかを隠されたりしたら最悪です。「バチがあたったのかな?何か悪いことをしたかなあ?」とイエス様を信じる前だったら考えたかもしれません。仕事や職場での人間関係、近所や町内会でのおつきあいでのトラブル、昨日からは様々な物の更なる値上がり、将来を考えると不安ばかり、それらを「結局は自分だけで何とかしないと」と思うと焦りや孤独を感じる人も多いのではないでしょうか。その上、思いがけない災害や疫病があれば「神も、仏もあるものか」と言いたくなる人もあるかもしれません。困難や厄介なことは私たちの毎日にたくさんあります。

 今日から全世界のキリスト教会は「受難週」という1週間に入りました。「受難」とは「難を受ける」と書き、イエス様が困難や苦しみを受けられたことを意味します。「週報」の「今日のみことば」の今週の聖書個所は、受難週の各曜日のことを取り上げていますので、ぜひお読みください。『聖書』には「福音書」が4つあり、その中で「受難週」を取り上げている分量はどのくらいか、一緒に調べてみましょう。「マタイの福音書」は28章のうち21~27章の7章分で25%は「受難週」です。「マルコの福音書」は16章のうち11~15章の5章分で約30%、「ルカの福音書」は24章のうち19~23章の5章分で約20%、「ヨハネの福音書」は21章のうち12~19章の8章分で何と約40%も「受難週」にページを割いています。33年と言われるイエス様の生涯のうち、この1週間の記述がこれほど多いのは「伝記」としては異常と言えるでしょうし、「福音書」が単なる「伝記」ではなく「福音」の文書であり、「福音」の中心は「受難週」だと示しているのではないでしょうか。

Ⅱ.みことば

1.見捨てられたお方(マルコの福音書 15章24~34節)

 「それから、彼らはイエスを十字架につけた」(24節)と書かれています。「十字架」とは約2000年前、西アジアのユダヤ地方を治めていたローマ帝国の死刑の方法で、強盗殺人や国家反逆など最も重い罪を犯した人に対する刑罰です。イエス様はこの時、どんな気持ちだったのでしょうか?自分がイエス様の立場だったらどうでしょうか?釘に刺された自分の足もとでは、見張りの兵士が自分の着ていたものをくじ引きで分けています(24節)。今、自分は裸同然なのです。時刻は朝の9時頃(25節)、朝の光に照らされ、都エルサレムの城壁の外の丘に立てられた十字架は目立ちます。都に仕事に行く人々を含め、みながジロジロと自分をさげすむような目で見て行きます。それもそのはず、自分の右と左の十字架につけられたのは強盗で(27節)、自分も重罪人として十字架につけられているのです。通りすがりの人々はののしります。29~30節をお読みます。こう言われて、自分だったらどう思いますか?「おりてやるよ!」と言いたいかもしれません。くやしさや怒りがこみ上げてくるかもしれません。指導者たちも、さらには両隣の十字架の強盗さえ、自分をあざけります。31~32節をお読みします。「キリスト、十字架から降りる奇跡を見たら救い主だと信じるよ」と自分が言われたらどうか?十字架から降りてしまうかもしれません。

 ある宗教団体は「十字架につけられた男を拝むなんて変だ!そんな宗教にご利益があるはずがない」と言います。そんな犯罪者が救い主だなんて非常識だということでしょう。約2000年前の『新約聖書』の時代にも「十字架につけられたキリスト」は「ユダヤ人にとってはつまずき」(Iコリント1:23)でした。人々に見下され、弟子たちにさえ見捨てられたイエス様はどんな気持ちだったのか?お昼になり、なぜか暗くなり、3時間も暗闇が続きます(33節)。午後3時、叫び声が響きます。34節をお読みします。これは詩篇22:1のことばですが、イエス様は冷静に『旧約聖書』を引用したというよりは、本心から「神様、どうしてわたしを見捨てたのですか?」と自分の気持ちを叫んだのではないでしょうか。人々や弟子たちだけでなく、神様にさえ見捨てられたお方がここにおられます。

2.それは誰のため?(マルコの福音書 15章35~37節)

 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(34節)という叫びは、「どうして」と理由を聞くというよりは、「わたしを見捨てないでください」と助けを求める願いのようにも聞こえます。この祈りに対して、神様からの答えはあったのでしょうか?

 十字架のそばに立っていた人々は、この祈りのことばを、昔の偉大な預言者エリヤを呼んでいると思い込んで「エリヤが降ろしに来るか見てみよう」(36節)と言います。イエス様の祈りに答えがあるか、何か奇跡が起きるかもしれないと様子を見ていたのです。

 しかし、エリヤは来ませんでした。何も起きませんでした。37節をお読みします。イエス様は息を引き取られたのです。「神様、どうして?」というイエス様の祈りに、答えは本当になかったのでしょうか。答えがなかったというのが、答えだったのではないでしょうか。神様は、イエス様の願い通りにはせず、助けなかった。それが、この時の神様の答えだったのではないでしょうか。つまり、イエス様は、神様から完全に見捨てられたのです!

 それは、誰のためか?それは、自分には神様なんて関係ないと思っていた私たちひとりひとりのためです。神様を礼拝しなくても、ふつうに生活できると思っていた私たちのためです。神様によって造られ、生かされているのに神様を捨てた私たちの代わりに、イエス様が神様に完全に見捨てられてくださったのです。それゆえ、罪がないのに十字架につけられたお方こそが、私たちの罪をその身に背負ってくださったイエス様こそが、キリスト、救い主なのです。Iペテロ2:24をお読みします。イエス様が私たちのために見捨てられてくださったので、私たちは神様に見捨てられることは決してありません(へブル13:5)。

Ⅲ.むすび

 私たちの日常に困ったことや厄介なことが起き、「まさに受難週だなあ」と感じる時があるかもしれません。自分が人々に見捨てられ、神様にも見離されたような孤独を感じる時もあるかもしれません。そんな時こそ、イエス様を思い起こしましょう。イエス様が自分の代わりに神様に見捨てられてくださったので、このイエス様のゆえに自分は神様に決して見捨てられることはないのです。それでも、イエス様のように「神様、どうして?」と疑問をぶつけたくなる時、助けを求めたい時は、遠慮する必要はありません。イエス様のゆえに、私たちは幼な子のように遠慮なく神様に近づき、何でも大胆に神様に訴えてよいのです。このあと共に聖餐をいただきます。今の自分は聖餐を受けるのにふさわしくないと感じる時もあるかもしれません。そんな時こそ、イエス様のゆえに聖餐を受ける必要があるのではないでしょうか。むしろ、自分はふさわしいと思える時は注意が必要かもしれません。イエス様のゆえに、驚くべき恵みを素直に受け取りましょう。

(記:牧師 小暮智久)