2023年3月26日 礼拝説教 「愛餐」

聖書: 使徒の働き 2章41~47節

Ⅰ.はじめに

 コロナ禍と言われて3年、私たちは様々な対応を求められてきました。不要不急の外出の自粛を呼びかけられた時には、何が不要不急なのかと考えさせられました。マスクや手指の消毒など、「新しい生活様式」と言われたことが日常に付け加えられました。感染を防ぐための工夫としてリモートやオンラインなどスマートフォンやパソコンの画面越しの対話も増えていきました。その結果、仕事のしかたや学校での授業、会議の持ち方や友だちとの食事や飲み会に至るまで、コロナ以前よりも選択肢が増えたとも言えます。それは、オンライン(リモート)か、対面か、その両方(ハイブリッド)か、などの選択の幅です。

 コロナへの対応は教会にも影響しています。例えば、礼拝のもち方、聖餐のもち方、伝道の方法、会議のもち方、交わりのもち方などです。体調や都合で礼拝に出席できない方にとってはオンラインによる礼拝は良い方法の一つかもしれませんが、出席できる人が「楽だから」という理由でオンラインによる礼拝をするのはどうなのでしょうか。オンラインという選択肢が増えた分、「礼拝や集会や交わりを、なぜ、その方法で行なうのか?」が問われるように思います。今日は、共に食事することについて、みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.愛餐とは何か?(使徒の働き 2章41~46節)

 「食事をともにし」(46節)ということが、「愛餐(あいさん)」と呼ばれるようになりました(ユダ12節)。「食事をともに」したこの人々は誰か?「彼のことばを受け入れた人々」(41節)とあります。イエス様が復活されて50日目、「ペンテコステ」という祭りの日、イエス様の弟子ペテロが、「キリスト(救い主)であるこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのだ。悔い改めて洗礼を受けよ」と語ったことばを受け入れ、洗礼を受けた3000人ほどの人々です。使徒の教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き(聖餐を行ない)、祈りをしていた人々です(42節)。この人々は「信者となった人々」(44節)とも呼ばれ、物を共同で所有し、必要に応じてその売り上げを分け合いました(45節)。この人々は毎日、神殿に集まって礼拝をささげ、家々で聖餐を行ない、食事をともにしていたのです(46節)。

 教会に加わった人々が食事を共にすること、この「愛餐」とは何でしょうか?青山学院の深町正信氏によると「愛餐とは、初代教会において主イエスの十字架に現われた愛を覚えつつ、共に同じ食事をとり、お互いに励まし合い、祈りを共にする主にある交わりの機会」です(深町,『初代メソジストによる愛餐』,p.2)。イエス様の愛を覚えつつ、共に同じものを食べること、それが「愛餐」です。その背景には、『旧約聖書』の「過ぎ越しの食事」があり、『新約聖書』での「5000人の給食」(ヨハネ6章)や復活後の弟子たちとの朝食など(ヨハネ21章)、イエス様と人々との食事の場面があるでしょう。手元にある『礼拝学辞典』の最初の項目はこの「愛餐(アガペー(愛))」です。初代のクリスチャンたちは毎週日曜日の夕方に共同の食事のために集まりました。なぜ夕方か。日曜日は平日だったからです。日曜日が休日となるのは4世紀以降です。なぜ日曜日か。イエス様が復活された日だからです。1日の仕事を終えて疲れていたと思われる人々が集まり、共に同じものを食べる「愛餐」を行ない、そのあとで「聖餐」が毎週行なわれ、礼拝をささげたようです。

 今の私たちにとって、「愛餐」は主日礼拝のあとです。何らかのプログラムのある「愛餐会」も含め、私たちは食事を共にする意味を思い起こす必要があるのではないでしょうか。

2.愛餐は何のため?(使徒の働き 2章47節,エペソ人への手紙 5章17~19節)

 「食べる」のは何のためか?栄養をとるためでしょうか。もしそれだけなら、食べなくても、栄養がとれるサプリや点滴でもよいのでしょうか。「それだけでは味気ないよ」との声も聞こえそうです。私たちが「食べる」のは栄養をとるためだけでなく、味わうため、そのようにして生きるため、楽しむためでもあるのではないでしょうか。しかも、「食いだめ」はできません。食事によって私たちは、日ごとの糧を与えて、生かしてくださっている神様の存在を身体に刻むのです。食べることは神様への感謝、讃美につながります。

 イエス様を信じる者が食事を共にする「愛餐」は何のためか?47節をお読みします。「食事をともにし」の次に「神を賛美し」と続きます。ここには深い意味があるのではないでしょうか。食事を共にし、その食事の与え主である神様を讃美するのは自然な流れではないでしょうか。その意味で、当時の「愛餐」の様子が垣間見えるのがエペソ5:17~19だと先週教えられました。共に集まって、自分に対する「主のみこころは何か」と考え、共に食事を、「愛餐」を始めます(5:17)。当時、ぶどう酒を飲み過ぎて酔ってしまう人もいたようですが、食事を共にする私たちに大切なのは「御霊に満たされること」です(5:18)。その食事の間に讃美を歌い、互いに語り合うのです。主は自分に何をしてくださったかという「証し」も語り合ったことでしょう。そして、「心から賛美し、歌う」のです(5:19)。これが初代教会の食事を共にする交わり、「愛餐」であり、その目的は主を讃美して、「神の栄光を現すため」でした。「食べるにも飲むにも」とある通りです(Ⅰコリント10:31)。

 初代教会から時がたち、「愛餐」はすたれてしまいます。それを復興したのは18世紀、ドイツの「モラビア兄弟団」という人々です。彼らはライ麦と水だけの食事を共にし、お互いのために祈り合いました。その「愛餐」を経験したのが若き日(30代半ば)のジョン・ウェスレーです。ウェスレーは「初代教会に立ち返れ」と呼びかけつつ、英国国教会の中で改革運動を始め、そのグループは「メソジスト」と呼ばれました。「メソジスト」は初代教会が大切にした「愛餐」をさかんに行ないます。飲み物は水かお茶、食べ物は少し甘いパンだけでした。人々は共に食べ、水を飲み、自分の信仰生活について語り合いました。その内容は例えば、讃美、祈り、感謝、パンの分配、貧しい人々への献金、牧師の奨励、証し、祈り、讃美、祝祷などで特に教会員の証しが非常に多く語られたそうです(深町,前掲講演,p.7~10)。その証しとは、ウェスレーの『日記』によると「兄弟らの多くは、自分らの魂に神のなしたもうた事を、平明かつ率直にかたった」(1761年3月1日(日))とあります。神様が自分にしてくださったことを率直に語るのが「証し」です。時に「愛餐」の参加者でイエス様を信じる人々も起こされたようで、まさに初代教会で「主は毎日、救われる人々を加えて」(使徒2:47)と書かれていることがウェスレーの時代にも起きたのです。

Ⅲ.むすび

 初代教会やメソジストのように、今の私たちも食事を共にする「愛餐」を大切にしましょう。礼拝のあと、誰かとあいさつし、お互いの近況を尋ね合い、みんなで一緒にではなくても、誰かと一緒に食事をし、体調だけでなく魂の状態はどうか、信仰の調子はどうかを尋ね合ってみましょう。年に数度の「愛餐会」にできるだけ参加し、「証し」を語り合うことで神様が讃美され、神様の栄光が現わされることを願います。

(記:牧師 小暮智久)