2023年3月12日 礼拝説教 「聖書と科学」

聖書: 詩篇  19篇 1~14節

Ⅰ.はじめに

 還付金やなりすましサギなども多く、「何が信用できるのか」と疑心暗鬼になる時代でしょうか。「何も信じられない。信じられるのは自分だけ」と思ったり、「そのように信じられる根拠は何か」と深く考えたりする人々は増えているかもしれません。コロナ禍で「エビデンス」ということばをよく耳にするようになりました。「証拠」とか「根拠」という意味です。「それが信用できるエビデンス(根拠)は何か?」という問いは、私たちが今を生きるためには避けられないでしょう。今の時代、信用するためのエビデンスとしてよく言われるのは「科学的かどうか」ではないでしょうか。「『聖書』は科学的でないから信用できない」とは、よく言われることです。確かに、天地創造や復活など科学で証明できないと思えることが『聖書』には書かれています。しかし、科学は万能なのでしょうか。そのエビデンスはどこにあるのでしょうか。『聖書』と「科学」は本当に対立するのでしょうか。今日は『聖書』の中のひとつの詩を通して示されている神様の語りかけを聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.自然が示すこと(詩篇 19篇1~6節)

 「科学」、特に私たちが住む世界のしくみなどを解明しようとする自然科学は、17世紀に始まったそうで、コペルニクス、ガリレオ、ニュートンなどが有名です。彼らは『聖書』が示す神様を信じるクリスチャンでした。『百万人の福音』3月号(教会の図書貸出コーナー,1階受付の向かい側にあります)は「科学を通して神のみわざを知る」などの記事が特集となっていてとても興味深いです。科学の先駆者たちは、この世界は理性をもつ神が創造されたのだから秩序があり、人間の理性によって理解できると考え、科学はこの信念(根拠)、エビデンスの上に成立していったのです。つまり、意外かもしれませんが、科学の始まりは、この世界を造られたのは神様だということにあり、それを示す『聖書』にあるのです。ガリレオは「神は2冊の書物を書いた。ひとつは聖書、もうひとつは自然である」と言ったそうです。このことばには、神の作品である自然や宇宙を観察して、そこに示されている神の力や知恵を知ろうとする謙虚さが現われているのではないでしょうか。

 私たちを取り巻く自然が示しているのは何でしょうか?1節をお読みします。私は初めてここを読んだ時、「神の栄光」も「御手のわざ」も意味がわからず、ピンときませんでした。「神の栄光」とは神というお方のすばらしさ、「御手のわざ」とは人間が何かを作る時に手を使うことになぞらえて、神の創造のわざという意味です。天も大空も、神様の存在とそのすばらしさを示し、神様の作品として作者である神様を示しているというのです。

 その示し方はどのようなものでしょうか?2節をお読みします。昼間は昼間の方法で神様を示し、夜には夜の方法で、たとえば星の動きなどによって神様を示しているのです。

 その不思議は、「話しもせず、語りもせず」(3節)とあるとおり、声もことばもありませんが、作者である神のすばらしさやそのメッセージは、自然という作品によって「世界の果てまで」(4節)届いているという現実です。その具体例として太陽のことが挙げられます(4節後半~6節)。当時のイスラエル以外の国では、太陽が神として拝まれることが多かったようですが、太陽も神様の作品として、作者である神様を示しているのです。

2.聖書が示すこと(詩篇 19篇7~10節)

 私たちの身の回りの自然のすばらしさは、それらの作者が存在し、作者がとてつもない知恵や能力をもつお方だと示しています。しかし、これだけでは、その作者である神様が私たち人間とどんな関係にあるのか、私たちひとりひとりをどう思い、何を願っておられるのか、詳しくはわかりません。7~8節をお読みします。作者である神様は、私たちにわかる「ことば」で語りかけるのです。ここでの「主のおしえ」「主の証し」「主の戒め」「主の仰せ」とは表現は違いますが、どれも神様の「ことば」を指しています。例えば、『聖書』の「創世記」は、神様がモーセという人にことばを示し、どのように書くかを導いた文書です。そのようにして書かれた39の文書が収められた『旧約聖書』、27の文書が収められた『新約聖書』という『聖書』の全体が、私たちに語りかける神様の「ことば」なのです。

 神様のことばである『聖書』が私たちに示すことは何か?「主のおしえは・・・たましいを生き返らせ」(7節)とあるように、いのちの源を示し、私たちひとりひとりが神様によって造られた本来のあり方への回復をもたらします。「主の証しは・・・賢くする」(7節)とあるように、神を恐れるという真の知恵を示し、何が信じられるか判断がむずかしい時にも私たちを賢くします。「主の戒めは・・人の心を喜ばせ」(8節)とあるように、何が確かな喜びかを示し、私たちに喜びをもたらし、私たちの目を澄み切らせ、明るくするのです(8節)。さらには、主のことばは確かであり、多くの純金にまさる価値があり、蜜の甘さにまさる満足を私たちにもたらします(9,10節)。『聖書』の価値に気づいているでしょうか。

3.私たちの求めと答え(詩篇 19篇11~14節)

 科学の先駆者たちは『聖書』が示す神様を信じ、この世界は神様が造られたのだから秩序や法則があり、そのしくみを解明し理解できるということを根拠にして研究を始めました。つまり、科学は『聖書』から生まれたのであり、科学と『聖書』は対立しなかったのです。しかし、その後の世代の科学者たちは、世界にあるのは「物質」だけで「神はいない」という前提で何でも説明でき、科学は万能だと考えるようになったと『百万人の福音』3月号は述べています。つまり、科学はもともと、『聖書』やイエス様を信じる信仰と相反するものではなかったのですが、「神はいない」とする無神論や、命や感情などもすべては物質の意味のない反応だとする唯物論の考え方が『聖書』と相反するものなのです。興味深いことに、ある科学者は「無神論を根拠とする科学万能主義の科学的な根拠(エビデンス)はどこにあるのか、もともとの科学に反しているではないか」と批判しています。この科学万能の考え方は、科学の先駆者たちの謙虚さと相反する「傲慢」ではないでしょうか。

 12~13節には祈りがあります。「自分の過ち」に気づけないのが私たちではないでしょうか。無神論を根拠とする現代の科学も、自らの過ちに気づけないのではないでしょうか。

 14節は私たちの求めではないでしょうか。しかも、自分の努力で神に受け入れられることは不可能です。神様の答えは「贖い主」です。それは「キリスト(救い主)」とも呼ばれます。「贖い」とは「代価を払って買い戻す」という意味です。約2000年前、イエス様は私たちの贖い主として十字架でご自身をささげてくださり、そのいのちという代価によって、私たちが罪と滅びから解放され、神の子どもとして買い戻される道が開かれたのです。

Ⅲ.むすび

 天を、大空を仰ぎ、神の栄光と御手のわざを見ましょう。『聖書』を開き、神のことばを聞き、主を恐れる知恵と喜びをいただきましょう。救い主イエス様を受け入れ、傲慢から解き放たれ、偉大な神様というお方の子どもとして歩みましょう。

(記:牧師 小暮智久)