2023年3月5日 礼拝説教 「吟味して生きる」

聖書: エペソ人への手紙 5章10節

Ⅰ.はじめに

 食事が終わって、自分のお茶碗やお皿などを重ねて台所の流しに持って行きます。すると、あとで母が洗ってくれます。私が育った家ではそうでした。今、同じようにお茶碗とほかの食器を全部重ねて流しに持って行くと「それは、やめて」と注意されます。油がついているものとほかの食器を一緒にしてほしくないなど、洗う段取りがあるようです。「こうすれば、相手は助かるだろう」と思ってそうしても、ほんとうに相手が喜ぶかどうかわかりません。わからない時は、「どうしたらいい?」と聞けばよいのではないでしょうか。

 私たちの教会の今年度の総主題は「主に喜ばれる教会」で、先ほどお読みしたエペソ5:10が今年度の主題のみことばです。「主に喜ばれること」ってどんなことでしょうか?私たちは、「自分が正しく間違えないことだ」とか「人にいつでも親切にすることだ」とか思うかもしれませんが、神様は「それは、今は違うよ」と言われるかもしれません。「何が主に喜ばれることなのか」を知るために必要なのは、自分の固定観念を捨てること、相手である神様に聞いてみることではないでしょうか。何が主に喜ばれることなのかを吟味して生きるということを、神様のことば、『聖書』から思い巡らしましょう。

Ⅱ.みことば

1.吟味するとは(エペソ人への手紙 5章10節)

 「吟味しなさい」(5:10)と言われています。「何を?」でしょうか。「何が主に喜ばれることなのかを」です。『新約聖書』は当時の一般的なことばのギリシア語で書かれました。1階集会室に『聖書』の世界の地図を広げて、同じ縮尺の日本地図も並べて距離感をつかめるようにしてありますので、あとでご覧ください。地中海世界を当時支配していたローマ帝国のアジア州と呼ばれた地域(今のトルコ)にあるエペソという町の教会に送られた手紙のこの箇所には「ドキマゾー」というギリシア語が使われています。このことばには「テストする」「調べる」「解釈する」「気づく」「見分ける」「発見する」など、少し幅のある意味があります。「調べる」という意味にポイントを置いて「吟味する」と訳したのでしょう。

 日本語の「吟味」とはどんな意味でしょうか?手元の国語辞典には「(詩歌を吟じ、趣きを味わう意から)ある物の内容、質などをよく調べること、よく調べて選ぶこと」とありました。「吟味」の吟は「詩吟」の吟です。私は詩吟の心得がありませんが、みことばを吟じて味わうこともできるのではないでしょうか。焼き物を手に取り、様々な方向からよく見て調べ、選ぶのも「吟味」でしょう。私たちが、何が主に喜ばれることなのかを知るのにも、そのような「吟味」が必要なのです。何が主に喜ばれるのか、『聖書』を声に出して読み、いろいろな方向から考え、時間をかけて思い巡らし、黙想してみてはどうでしょうか。

2.吟味して生きるには(エペソ人への手紙 5章15~20節)

 この「エペソ人への手紙」は、何が主に喜ばれ、何が主のみこころであるのかを吟味するために、どうしたらよいかを具体的に述べています。2つのことに注目しましょう。

(1)自分の歩み(生活)に注意を払う(エペソ5:15)

 個人差はあるでしょうが、私たちは自分が人にどう思われているかを気にすることは多くても、自分がどう感じているかを心に留めることは少ないのではないでしょうか。15節をお読みします。「自分がどのように歩んでいるか、・・・細かく注意を払いなさい」とあります。私たちは案外、自分に注意を払わず、自分がどんなふうに感じているかもわかっていないのではないでしょうか。私は妻に勧められて「牧会者と霊性のセミナー」に2001年から参加するようになりました。実は、自分の内面をあまり見たくなくて、行きたくありませんでした。でも、行ってみると、そこは肩の力を抜くことができる心地よい所でした。プログラムの初めの方で「すわり直し」という時がありました。「ふだん意識せずにイスに座る自分のからだがどう感じているかを感じ取ってから、一番楽な座り方に座り直してみましょう」という時間でした。今、ここですることもできます。「自分の腰や背中がイスとどう接しているか、首は重い頭を支えてどう感じているか」と聞かれました。私は最初、よくわかりませんでした。自分のからだがどう感じているかなんて、あまり意識したことがなかったからです。でも、だんだんと背中や首の感じがわかってきました。その感じ方がよいか悪いかという評価ではなく、自分がどう感じているかに注意を払うことは、自分の生活を振り返ることにつながっていきます。この半年で嬉しかったこと、悲しかったことなどをふり返る時間もありました。最初は何も思い浮かびませんでした。ふだん自分の感情を気にとめていなかったからです。でも、次第に「あの時、自分はこんな気持ちだったんだ」とことばで表現するようになりました。「主よ あなたは私を探り 知っておられます」(詩篇139:1)から始まる今日の招詞のとおり、主は私たちが立つのも座るのも知り、ことばになる前の思いもご存じの上で、受け入れ愛していてくださいます。主のまなざしの中で、自分の歩み(生活)のくせや偏りに気づかせていただくことは、何が主に喜ばれることなのかを吟味することです。

(2)互いに語り合う(エペソ5:19)

 「互いに語り合い」(19節)とあります。「互いに」とは「誰かと」ということです。自分の歩みに注意を払い、自分の生活のくせや偏りに気づき、何が主に喜ばれることなのかを吟味することができますが、それだけでは神様というお方のとらえ方が狭くなりがちです。誰かほかの人の歩み(生活)の中で、その人の嬉しかったことや悲しかったことを聞かせていただく時に、自分の経験と似ていても違う受け止め方や、自分では思いもよらなかった神様というお方の別の面に気がつくことがあります。たとえば、妻と出会う前の私にとっての神様は「今も生きておられ、現実に働かれる身近なお方」という面は薄かったように思います。妻と語り合うことで、私の信仰は豊かにされました。

 「詩と賛美と霊の歌をもって」の「詩」とは『旧約聖書』の「詩篇」です。「詩篇」には神様への讃美だけでなく、神様への不満に似た疑問(詩13:1,22:1)や敵への復讐や憎しみのことば(詩94:1,139:19-22)もあります。主の前で、人間の様々な感情が表現されているのです。主の前で互いに語り合う。「主にある交わり」とはこれではないでしょうか。共におられる主を覚えて互いに語り合うことは、何が主に喜ばれるか吟味することです。

Ⅲ.むすび

 今日は「聖餐」を共に受けます。「聖餐」は、主が何をしてくださったかを味わう時です。自分を絶対者として神様に敵対していた私たち一人一人の身代わりに、イエス様は十字架で死んでくださいました。死んで葬られ、3日目に復活されたイエス様と共に歩むために、何が主に喜ばれることなのか吟味しましょう。「聖餐」は、主にある人々との交わりを味わう時です。主の前で互いに語り合う交わりを、ここから始めましょう。

(記:牧師 小暮智久)