2023年2月19日 礼拝説教 「あなたの出番」

聖書: ルカの福音書 9章 1~9節

Ⅰ.はじめに

 日本フリーメソジスト教団の牧師は、世襲制でなく、招聘(しょうへい)制(教会が牧師を招き雇う制度)でもなく、任命制で教団によって各教会に1年ごとに任命されています。1989年4月に私が伝道師として最初に任命されたのはこの教会で、主任の牧師と名誉牧師がおられました。新婚の私たち夫婦の住まいは、牧師が不在であった当時の豊中穂積教会で、淀川を越えて大阪市内に通い、東住吉教会で奉仕していました。豊中の教会はこの教会の主任の牧師が兼務しており、日曜の礼拝は主に神学生が奨励をしていましたが、ふだんの日は私たちが豊中の教会に住んで管理し、電話も受けるというややこしい状況でした。ある日、東住吉教会から豊中の教会に帰ると夜、「今から自殺したいのです」という電話がありました。私は経験も浅く、どう答えたらよいかわからず、緊張しました。教会だからこそ、このような助けを求める電話もあるし、教会に遣わされるというのはこういうことなのだと実感しました。その後私は1991年に大阪日本橋教会に任命され、1994年に東住吉教会に任命され、その後も1年ごとに、結果として29年ここに任命されています。イエス様を信じるとクリスチャン、キリスト者と呼ばれます。キリストの名を帯びて、その名を背負ってその場所に任命されているのです。人々の質問や求めのすべてに応じられる訳ではありませんが、キリストが自分によってあらわされるために、その場所に遣わされているのです。

 この教会の礼拝では2017年5月から『聖書』の「ルカの福音書」を少しずつお聴きし、今日は前回1月22日の続きの所です。イエス様に遣わされる人々の姿を見ましょう。

Ⅱ.みことば

1.遣わされる12人(ルカの福音書 9章1~6節)

 8章と9章には大きな違いがあります。8章ではイエス様ご自身が「神の国」を人々に宣べ伝え、人々の病気などをいやしました。しかし、9章ではイエス様は「これからは、あなたがたが神の国を伝え、人々をいやすのです」と弟子たちを遣わされたのです。イエス様は今の私たちにも「あなたの出番だ」と言われているのではないでしょうか。私たちが過ごしている家、隣近所の人々と出会う場所、学校や職場などは、イエス様が私たちを遣わしている所です。私たちは、イエス様の代わりに、イエス様というお方の存在を示し、イエス様がされる働きを行なうために、家庭や地域や職場などに派遣されているのです。

 私たちが遣わされているのは、具体的には何のためか?2節をお読みします。「神の国を宣べ伝え、病人を治すため」です。「神の国」とは、死んでから行く「天国」だけではありません。「神の国」とは、「神の支配下」のことです。「神の国に入る」とは、今この地上で、神様が愛をもって支配する生活に入ることです。「神の国」は、今まで自分が王として生活してきたのを悔い改め、神様の支配を受け入れるとき、だれでも入ることができる生活です。この「神の国」を私たちは伝えるのです。「病人を治すため」と言われても自分は医者でないから無理だと思うかもしれません。しかし、「神の国」は「こころ」だけでなく、「からだ」にも関わるのです。18世紀にメソジストの指導者ジョン・ウェスレーはPrimitive Physicという、日常に役立つ医学書を書き、医療を受けられない人々の必要に応えました。「病人を治すため」とは「人々の必要に応えるため」とも言えるのではないでしょうか。

 そのための装備は何か?それは「悪霊を制して病気を癒やす力と権威」(1節)です。イエス様は私たちにも「神の国」を伝え「人々の必要に応える」力と権威を授けて下さいます。

 12人が遣わされる際の心得とは何か?3~5節をお読みします。イエス様によって遣わされる際の心得とは、①持ち物は最小限であること(3節)、これは必要な物は神様が備えてくださるとの信頼を意味するのでしょう、②滞在場所は一つの家であること(4節)、これは働きの足掛かりとなる宿などは必ず備えられるから、そこで落ち着いて働くことを意味するのでしょうか、③人々が自分たちを受け入れないとしたら、それは自分たちが伝えた「神の国」を拒否したと受け取ればよいのであり、その証拠を残していくこと(5節)でした。

 力と権威をイエス様から授けられ、心得を教えられて、12人の弟子たちは遣わされていきます。6節をお読みします。彼らは様々な村を巡り、「福音を宣べ伝え、癒やしを行った」(6節)のです。「福音」とは何か?今の私たちはすぐに「イエス様の十字架と復活による救いの知らせ」と考えがちです。しかし、イエス様が十字架で死なれる前の、この時に弟子たちが伝えた「福音」の内容は何でしょうか?ここを何回か読むうちに、彼らが宣べ伝えたものが、2節では「神の国」、6節では「福音」と言われていることに私は気がつきました。「福音」とは「良い知らせ」という意味です。つまり、彼らが伝えた内容は「神の国」、神様の愛による支配のもとでの本来の人間らしい生活であり、そのような「神の国」は、ただ受け入れるだけで誰にでも与えられるという「福音」(良い知らせ)だったと言えるのではないでしょうか。それを証拠立てるように、弟子たちは人々の病を癒やしを行ないました。今の私たちにとっては、人々の必要に応える働きのすべて、医療や福祉、教育や様々な支援、この教団のチャイルドケアの働きも、「神の国」を見せるしるしでしょう。

2.領主の当惑(ルカの福音書 9章7~9節)

 こうして弟子たちが遣わされ、人々に「神の国」が伝えられ、「癒やし」が行なわれて、どうなったか?7~8節をお読みします。「領主ヘロデ」とは、生まれたばかりのイエス様を殺そうとしたヘロデ王の息子で、当時の地中海世界を支配していたローマ帝国の中のガリラヤという地方の領主です。政治の状況は違いますが、今で言えば県知事や府知事のような立場の人でしょうか。「このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた」(7節)のです。というのは、イエス様について様々なうわさがヘロデの耳に入ってきたからです。

 このとき、ヘロデはどうしたか?9節をお読みします。彼は「このようなうわさがあるこの人は、いったいだれなのだろうか」(9節)と関心を持ち、イエス様に会ってみたいと思ったのでした。遣わされた弟子たちが「神の国」を伝え、病気を癒やしたことは、今で言えば府知事の立場のような人に「イエスに会ってみたい」と思わせるほどのインパクトを与えたのです。新聞もテレビもなかったことを考えると、大きな影響ではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 あなたがそこにいるというだけで、その影響力は計り知れません。あなたを見て誰かが「イエスに会ってみたい」と思うのではないでしょうか。学校で隣の席の人、職場で隣の席の人、隣の家の人、あなたしか接することのできない人がいます。「こんな私なんて何もできない」と尻込みしても「あるに甲斐なきわれをも召し、あまつ世嗣(よつぎ)となしたまえば、たれかもるべき主の救いに」(讃美歌502,3節)とあとで歌う通り、こんな私でも神の国の世継ぎ(相続人)とされたのですから、主の救いから誰かがもれてよいでしょうか。主はあなたを通してその人にも働きかけることがおできになります。

(記:牧師 小暮智久)