2023年1月29日 礼拝説教 「神の呼びかけを聞く」

聖書: サムエル記 第1 3章1~9節

Ⅰ.はじめに

 先週はどんなことがありましたか?神様が気にかけてくれていると感じることがあったでしょうか?先週木曜朝、今は牧師を休み別の仕事をしている35年来の友だちが声をかけてくれました。これも神様の働きかけだと私は感じます。ランチを共にしての話題の一つは、今の時代は「家族」よりも「個人」が強調されるので自分の理想を実現したいという思いが強く、教会でもお互いにそのような思いが強いと「神の家族である教会」がバラバラな個人になってしまうのではないか、そのような今は「父なる神に愛されている自分」として「神の家族のひとりである自分」という意識が大切ではないか、という内容でした。

 この教会の礼拝では、『旧約聖書』の「サムエル記」を昨年1月から少しずつお聴きし、今日は前回11月20日の続きの所です。今から3000年ほど前、紀元前1000年ごろという大昔の西アジアのイスラエルの「神の民」、神様に愛されているはずの人々の現実がくわしく書かれています。2章の後半では、神様の思いよりも自分の思いを優先する人々の姿が書かれていました。神様はどう働きかけるのでしょうか?みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.サムエルの少年時代(サムエル記 第1 3章1~3節)

 「さて、少年サムエルは」(1節)とあります。このサムエルは、ハンナという女性が神様に「男の子をくださるなら、神様にお渡しします」と祈り(1:11)、誕生し(1:20)、乳離れした頃に主の宮の祭司エリの所に連れて来られ(1:24)、「主にも人にもいつくしまれ」(2:26)て成長した少年です。サムエルは、主のいつくしみを受け、神様に大切にされていると実感し、人のいつくしみも受け、身近な人にも大切にされていると実感して育ったようです。

 サムエルは「エリのもとで主に仕えて」(1節)いました。エリの指導を受け、エリの責任のもとで、ということでしょう。「エリのもとで」という表現は、そのような今までのサムエルのあり方が変わり、独り立ちの時が近づいていることを示しているようにも見えます。

 「そのころ」(1節)と言われる当時は、どんな時代だったのか?「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(1節)とあります。神様がご自分の思いを人々に知らせる方法は当時、ことばを人に託すか、幻を人に見せるか、などでしたが、それがまれで珍しく少ない時代だったのです。それは、祭司エリの子どもたちが礼拝でのささげ物を侮り横取りしていたことなどに対する神様の怒りの表われのようです。神様がご自分の思いを人々に伝えない時代、たとえば、みことばの飢饉、「主のことばを聞くことの飢饉」(アモス8:11)が来るというのも神様の怒りの表われではないでしょうか。現代で言えば、全国的な牧師の不足もそのしるしでしょうか。しかし、今は読もうと思えばいつでも、神のことばである『聖書』を自分の国語で読める時代です。主のことばを聞く機会を生かしましょう。

 2~3節ではエリとサムエルが対比されています。エリは「自分のところで」(2節)、サムエルは「主の神殿で」(3節)寝ています。「神のともしびが消される前」(3節)とは夜明け前の暗い時を指し、サムエル記ではここに初めて登場する「神の箱」とは神様の臨在のしるしで、モーセに与えられた十戒が刻まれた石の板などが収められていました。神様がそこにおられるという場所にサムエルはいました。私たちも今、神様の前にいるのです。

2.神様の呼びかけ(サムエル記 第1 3章4~7節)

 「主はサムエルを呼ばれた」(4節)とあります。神様というお方は、私たちひとりひとりの名前を呼ばれるのです。この時のサムエルは、自分の名前を呼ぶのはエリだけだと思っていたでしょう。4~5節をお読みします。呼ばれたら、すぐに返事をし、走っていく少年。純真で素直、「あれ?おかしいなあ」と首をかしげながら帰っていく。かわいらしく、ユーモラスな場面でもあります。主はもう一度呼ばれます(6節)。同じように、行ったり来たりが繰り返されます。神学校の恩師・久利英二師は『新聖書講解 サムエル記』で、ここで気づかされる姿はもはやユーモラスではなく、サムエルの世界が閉鎖的ということだと指摘しています。「閉鎖的」というのは、サムエルがエリへの服従のもとで生きて来たからで、エリは神様に仕えることを教えたつもりで、何も教えていなかったと久利師は言います。

 7節をお読みします。サムエルにとって神様とは、エリを通して知る神様だったのです。今の自分にとって、神様とはどんなお方か?親を通して、先輩クリスチャンを通して、牧師を通して、間接的に知っている存在でしょうか。それとも、自分の神様と言える存在でしょうか。神様は、『聖書』を通して語りかけ、イエス様を救い主と信じることによって神様の子どもとしてくださり、神様の家族である教会の交わりの中で、神様を親しく知り続ける者としてくださいます。イエス様を信じると、『聖書』のことばが、自分への語りかけや約束として受け取れるという経験をしていくことができます。あなたはどうですか?

3.呼びかけに答えるには(サムエル記 第1 3章8~9節)

 「主は三度目にサムエルを呼ばれた」(8節)とあります。3回の繰り返しというのは『聖書』では特別な意味をもつようです(ヨハネ21章,使徒10章)。3度目にサムエルが「お呼びになりましたので」とエリの所に来た時、彼はただごとでないと気づいたでしょう。「主が少年を呼んでおられると悟った」(8節)とあります。この時、エリは何を思ったか?「主が呼ばれたのは祭司の自分ではなく、この少年なのか」とエリは複雑な思いだったのではないでしょうか。また、2章に書かれている通り、少し前に自分の所に来た人から、主のさばきと祭司の交代を告げられていますから、エリはある種の覚悟をしたかもしれません。

 エリがこの時、次のように言ったことゆえに私はエリを尊敬しますし、非常に厳粛なものを感じます。9節をお読みします。「主は、長年主に仕えてきた私でなく、この少年を呼んでおられるのだ」とエリは認めた上で、主の呼びかけにどう答えたらよいかを教えたのでした。それは、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という答え方であり、態度です。主の呼びかけに答えるには、「聞いております」という神様の方に向き、神様に対して開かれている態度が必要だと、エリは少年に語り、主がサムエルに告げようとしておられることが自分への厳しいみことばであったとしても聴こうと覚悟を決めたのです。以前、この教会の母子室にあった「幼きサムエル」(ジョシュア・レノルズ,1766年)という絵は、このあとのサムエルが主に聴こうとしている姿を描いているのでしょう。

Ⅲ.むすび

 神様は「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」(イザヤ43:1)と私たちに語りかけ、イエス様の十字架での死と復活のゆえに、私たちひとりひとりに「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)と言われます。イエス様が天の父にお聴きした(マルコ1:35)ように、私たちも「しもべは聞いております」という態度で過ごしましょう。それが耳に痛いみことばでもお従いするために。

(記:牧師 小暮智久)