2023年1月22日 礼拝説教 「イエス様は今も気にかけて」

聖書: ルカの福音書 8章 40~56節

Ⅰ.はじめに

 先週はどんなことがありましたか?その時、どう感じましたか?それがどんなことでも、どんなに小さいことだと思えても、イエス様はその時も共におられ、その時の気持ちをわかっていてくださいます。先週、私は3~4ヶ月に1度の定期検診で歯医者さんに行きました。すると「きれいに磨けていますね」と言われました。そのように言われたことはあまりなかったのでうれしくなり、「実は、前に来た時に言われた通り、フロス(歯の間を磨く糸)を朝だけですが使うようになりました」と言いました。検診が終わったあと、その歯科衛生士さんに「歯ぐきの具合が前よりもよくなっていますね。フロスを使っている効果だと思いますよ」と言われました。「そう言われると、これからも続ける張り合いがあります」と私は答え、とてもうれしく感じました。自分の小さな努力に気づいてもらえること、気にかけてもらえることは、心があたたかくなり、励まされるなあと感じた出来事でした。

 この教会の礼拝では2017年5月から『聖書』の「ルカの福音書」を少しずつお聴きし、今日は久しぶりに前回9月25日の続きの所です。イエス様というお方は今も私たちひとりひとりの思いや求めに気づき、気にかけてくださいます。共にみことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.父親の求め(ルカの福音書 8章40~42節)

 「さて、イエスが帰って来られると」(40節)とあります。イエス様が、西アジアのイスラエルの首都エルサレムの北の方、ガリラヤ湖の東側から北側に戻って来られたということだと思われます。「みなイエスを待ちわびていた」(40節)とあります。私たちもイエス様が来られるのを待ちわびているでしょうか?イエス様は再びこの世界に来られます。それを「イエス様の再臨」と言います。その日を楽しみに待ち望みましょう。また、今週、自分の生活の中でイエス様が何をしてくださるか、それを楽しみにして期待しましょう。

 そこにヤイロという人がやって来ます。この人は「会堂司(かいどうづかさ)」、当時の人々が礼拝するユダヤ教の会堂を管理する人でした。この人がイエス様の足もとにひれ伏して「自分の家に来てほしい」と必死にお願いします(41節)。当時のユダヤ教のリーダーの多くはイエス様を批判しましたが、イエス様に頼る人もいたのですね。ヤイロはなぜ、イエス様に頼ったのか?42節をお読みします。12歳ぐらいの一人娘。人生これからという一人娘、ヤイロにとって何にも代えられない宝物だったでしょう。「その娘が死にかけている。助けてほしい」と聞き、イエス様は出かけられます。群衆はイエス様に押し迫って来る。なかなか進めない。ヤイロは「急いでほしいのに」とイライラしたのではないでしょうか。

2.病気の女性(ルカの福音書 8章43~48節)

 ヤイロの家に行く途中、別のことが起こります。私たちの日常にもあるかもしれません。あることで困っていたら、同時に別のことが起きて、どうしたらいいのかわからないような現実です。私にとっては去年3月、父が突然召され、ひとり暮らしになる母の今後の生活のことをあれこれ考えていたら、その母も5月に召されたという、心が追いつかない出来事がありました。この時に起きた別のこととは何か?43~44節をお読みします。「長血」というのは長い間出血する女性特有の病気、当時の社会では「けがれている」とされ、人から避けられ孤独になり、身体も心もつらい病気でした。しかも、12年間も。今行こうとしている家の娘が生まれてから今日までの年月と同じです。この女性がイエス様に治してもらいたいと願ってその衣服にふれると、すぐに出血が止まったのです。ここまでなら、知っているのはこの女性とイエス様だけで人々に知られない、それだけのことでした。

 しかし、イエス様は「わたしにさわったのは、だれですか」(45節)と言われます。ペテロの答えは「こんなに大勢でさわるつもりがなくてもさわった人がいるのに、さわろうとしてさわった人なんてわかりませんよ」という意味でしょうし、「ヤイロの家に早く行きましょうよ」という意図も隠れているのではないでしょうか。しかし、イエス様はこの途中で起きた別の出来事もおろそかにせず、ていねいに向き合い、もう一度言われます。46節をお読みします。イエス様は誰がご自分にさわったか、知っておられたでしょう。しかし、その人が自分で言うのを待っておられました。なぜでしょうか?47~48節をお読みします。彼女が言ったこと、それは「イエス様にさわれば治ると信じてさわった。すると、病気が治った」ということでしょう。これが、①信仰の告白であり、証しです。②治ったことがみんなにわかったので、社会に復帰できます。③そこにいたヤイロにとっても、イエス様の力を知る大きな励ましだったのではないでしょうか。私たちも礼拝後、誰かに「先週、主がしてくださったことは何ですか?」と聞き、互いに語り合ってはどうでしょうか。

3.絶望の先に(ルカの福音書 8章49~56節)

 そこへ悲しい知らせが届きます(49節)。ヤイロは「娘が死んだのならもう終わりだ、絶望だ」と思ったでしょう。「生きていても希望がない。かと言って死ぬのもこわい。自分が生きる意味や希望はどこにあるのだろう」と絶望を感じる時が私たちにもあるでしょうか。

 イエス様はその時、どう言われたか?50節をお読みします。「恐れないで、ただ信じなさい」(50節)と言われます。「ただ信じる」とは、何を信じるのでしょうか?それは、イエス様というお方を信じる、イエス様に自分をまかせれば大丈夫と信頼することです。なぜ、大丈夫なのか?それは、ヤイロの家に着き(51節)、泣き悲しむ人々の声(52節)や「死んだのではない」と言うイエス様をあざ笑う人々(53節)によって、確かに死んだと立証される少女に起きた、驚くべき出来事にその根拠の一つがあります。イエス様は少女の手を取って「子よ、起きなさい」と言われました(54節)。まるで、母親が自分の子どもに朝、「智久、起きなさい」と言うような感じです。どうなったか?55節をお読みします。少女は起き上がります。つまり、生き返ったのです。イエス様には死んだ人を生き返らせる力があり、イエス様は死よりも強いお方なのです。だから、恐れないで、このイエス様にならば自分をまかせ信頼できるのではないでしょうか。しかも、イエス様はこの時「その子に食べ物を与えるように」(55節)と非常に日常的なことを指示されました。それは、イエス様が私たちの食べるというごく日常のことを気にかけていてくださることを示し、また、その子がすぐに食事ができるほど完全に回復したことも示しているのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 イエス様は、神様から離れた私たちの身代わりとして十字架で死なれ、3日目に復活され、完全な赦しと救いを用意してくださいました。罪と死に勝利されたイエス様が「今も自分に何をしてくださったか」を身近な人と語り合いましょう。「先週、こんなことがあったけど、主は平安を与えてくださった」など、まず私たちが互いにイエス様について語ることが、周囲の人々への証しにつながっていくのではないでしょうか。

(記:牧師 小暮智久)