2022年11月27日 礼拝説教 「史上最大の片思い」

聖書: ヨハネの福音書 3章16節

Ⅰ.はじめに

 今年は紅葉がいつもより美しいように感じます。修学旅行のシーズンはもう終わったでしょうか。コロナの影響で修学旅行もいろいろと大変だろうと思います。修学旅行と言って思い出すのは、男子の部屋では枕投げのあと、ふとんの中で「クラスで好きな女の子の名前」を言い合ったことです。小学校の修学旅行だったでしょうか、私の場合は栃木県の日光でした。クラスで人気のある女の子の名前が何回も出て自分の番になり、「お前はどうなんだよ?」と聞かれ、本当は「いいなあ」と思っていた別の女の子がいたのですがそれは言えず、顔がとても熱くなって(たぶん真っ赤な顔になって)、「ぼくもその人」とやっと答えたのを思い出します。そのあとでなおさら、名前を言えなかった人のことが気になり、好きな気持ちは強くなっていきましたが伝えることはできず、片思いのまま終わりました。片思いと言うと、自分だけで盛り上がり、相手の立場になるよりも、自分本位である場合が多いように思いますが、ただただ私たちひとりひとりの幸せを願い、私たちにずっと思いを向け続けておられるお方が『聖書』に紹介されています。共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.世を愛されたお方(ヨハネの福音書 3章16節前半)

 「神は」と書かれています。日本で「神」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。お寺とか神社かもしれません。商売繁盛や合格祈願の神様でしょうか。いずれにしても、自分の願いをかなえてくれて、生活を守ってくれる、そんな神様かもしれません。つまり、自分が主役で、神様は脇役のような感じです。『聖書』はとても分厚い本ですが、その最初にも「神」ということばがあります。「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1:1)というのが『聖書』の第1行目です。『聖書』が私たちに紹介している「神」は、この世界と私たち人間をお造りになったお方、つまり世界の作者、私たちは神様の作品なのです。

 この「神は」どうしたのか?「世を愛された」とあります。「世」とは、私たちが住むこの世界です。この世界を造られた神ならば、作品であるこの世を愛するのは当たり前じゃないかと言いたくなります。では、どうして、わざわざ、「神は世を愛された」と書かれているのか?「世」ということばの中には、神が造られた私たち人間も含まれています。その私たちは日常生活で、自分を造り生かしているのは神だとどれだけ思い出すでしょうか。「世」ということばには、最初の人アダムとエバ以来、神のことを考えず、神と関係なく生活するようになった人々の姿が含まれています。私たち人間は神を無視しているのに、神はその世を、私たちひとりひとりを愛された。まるで一方通行、片思いのようです。

 私たちは「愛する」ということばを日頃あまり使わないかもしれません。辞書を引くと「かわいがる」「いつくしむ」「大切にする」「恋しく思う」と書かれていました。「いとおしむ」という言い方もあります。神が私たちをいとおしむ愛はどれほどか?「そのひとり子をお与えになったほど」とあります。これは神がひとり子イエス様を人としてこの世に生まれさせた「クリスマス」の出来事です。今日から世界中の教会はアドヴェント(待降節)というクリスマスを待つ期間です。クリスマスとは、神がそのひとり子を私たちに与えるほどに愛しておられることが示された日なのです。この愛に、どう返事しましょうか?

2.その愛は何のため?(ヨハネの福音書 3章16節後半)

 「神は・・・世を愛された」。私たちへの、史上最大とも言える片思いの愛は何のためか?

 『聖書』は「それは・・・ためである」とその目的をはっきりと述べています。その一つは、私たちが「一人として滅びること」がないためです。逆に言うと、神がイエス様をこの世に与えなければ、私たちは滅びるはずだったのです。なぜか?私たちは母親の胎の中で神によって造られ、この世に生まれ、神によって生かされている存在です。そんな私たちが、自分のいのちの源である神を知らず、神と関係なく生活するということは、身体は食べて寝て生きていても、内面では自分が生きている意味や価値がわからず死んでいるような状態で、神とのつながりなく生活し続け、そのまま身体の死を迎えれば、死んだのちも神とのつながりはないままで、神から離れた孤独やむなしさや後悔を永遠に続ける苦しみに自分から入って行かざるを得ません。これが「滅びる」ということです。神は、私たちが「滅びる」ことを決して願っておられません。その証拠に、あなたの身近にクリスチャンの存在を備えたり(友だち、親、兄弟や姉妹、子どもなど)、『聖書』や「教会」との出会いを備えたりして、神はご自分の存在を示し、あなたを招き続けていたのです。

 神が、ひとり子イエス様をお与えになるほどに、私たちを愛された目的のもう一つは、私たちが「永遠のいのちを持つため」です。「永遠のいのち」とは、不老長寿ではなく、自分を生かしているのは神なんだとハッと気づき、このお方を、自分が知らず、無視してきたことを、神の顔に泥を塗る失礼な態度だったと認め、あやまり、赦していただき、毎日を神とつながって過ごしていく生活です。しかし、あやまれば、それだけで赦されるほど、私たちの失礼や不遜な態度は軽いものではありません。どんなに努力して良い自分になっても、どんなに償いをしても、それで神に赦され、受け入れられ、神とのつながりが回復されることは絶対にあり得ません。『聖書』はどう言っていますか?「御子を信じる者が・・・永遠のいのちを持つ」と断言しています。御子イエス様は、私たちと同じように赤ちゃんとして生まれ、人の身体と心をもって約33年を生きられました。イエス様は罪が全くなかったのに人々の策略で十字架による死刑を受けられ、それは神に対する私たちひとりひとりの失礼や不遜な態度などの身代わりの処罰だったのです。しかも、墓に葬られて3日目に復活されたことにより、私たちの身代わりの処罰の完了を示し、罪と滅びからの解放を成し遂げられたのです。このイエス様を信じる人は今、神とのつながりを与えられ、毎日を神と一緒に過ごしていくように変えられ、死んだのちも神と一緒の生活が続くのです。

Ⅲ.むすび

 私たちお互いにいつまで生きるか、誰にもわかりません。ただ、誰でも、死ぬまでは生きるというのは確かでしょう。その限られた、一度だけの人生の中で、この史上最大と言える神の片思いに、お返事しなくてよいのでしょうか?神が願っておられるお返事は、神のひとり子イエス様を、自分のためにお与えくださった救い主と信じるという応答です。その瞬間から始まるのは「永遠のいのち」の生活です。あなたを生かしておられる神とのつながりが、イエス様の十字架での死と復活のゆえに回復され、うれしい時もつらい時も神があなたと共におられ、あなたも神に導かれて共に過ごしていく「永遠のいのち」の日々がそこから始まります。その実際がどうかは、近くの席の教会員に聞いてみてください。「永遠のいのち」の生活の中で、悩みも不安も病気やケガもあります。大きな違いは、神の片思いではなく、神と自分が両思いになったという永遠の絆です。

(記:牧師 小暮智久)