2022年12月4日 礼拝説教 「広がりゆく神の国」

聖書: イザヤ書 第11章 1~10節

Ⅰ.はじめに

 先週の日曜日、共にお祈りし準備してきた特別伝道集会「落語を教会で」が開かれました。今年は和歌山からゴスペル亭パウロさん、横浜から参遊亭 遊助さんをお迎えしました。関西と関東の語り口調の違いを楽しみ、「聖書落語」や「還付金詐欺防止落語」などを聞かせていただきました。特に、『聖書』の場面を題材とした落語では、その情景が目に浮かぶようだなあと感じました。教会員でない方が10数名、地元・湯里の地域からも、配られた案内チラシを見て9名ほどの方々が来られました。先週の木曜日10時からの近くの公園でのラジオ体操でそのうちの何人かにお会いし、「とっても楽しく、ためになった」と言われ、アンケートには「聖書に関心をもった」という所に〇をつけた方もおられました。

 これらは、私たちのお祈りに主がお答えくださったみわざであり、心から感謝します。1923年に阿倍野の丸山で伝道が始まり、今のこの教会の前身に当たる「日本自由メソヂスト第3教会」が組織され、1966年にここ湯里に移転して今の教会堂を建て、これまでも伝道の実が結ばれてきましたが、これからも主がみわざをなし、実を結び続けてくださるのだなあと実感しました。99年前のこの教会の発足当初の出席会員は11名と小さな始まりでしたが、主がここまでお導きくださったことを感謝します。アドヴェント(待降節)第2の主日、始まりは小さくても広がりゆく主のみわざを、みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.始まりは小さくても(イザヤ書  11章1~5節)

 このイザヤ書は紀元前8世紀頃にイザヤという人に神様が預けた言葉です。ここには「キリストはどんな方か」「キリストがもたらす神の国とはどんな世界か」が語られています。

「エッサイの根株から新芽が生え、」(11:1)とあります。キリストは、切り株から新芽が出るように現われるのです。エッサイは人の名前、彼は羊飼いでした。このエッサイの子がダビデという王になり、その子孫がダビデ王家として続きますが、外国に滅ぼされユダヤ人の国はなくなってしまいます。しかし、その切り株から出る芽のように、キリスト(救い主)はダビデの子孫としてこの700年後に、今から約2022年前に生まれたのです。

 笹尾鉄三郎という人がいました。1868(明治元)年生まれで 1914(大正3)年に46歳で召されました。この人のことを私は「少年少女信仰偉人伝」(シュバイツァーや賀川豊彦など伝記が好きでなかった私も学生時代に片っ端から読みました。ゆざと文庫にもあります)で知りました。フリーメソジスト教会の日本での伝道が1896年に淡路島で始まり、最初の指導者となる河邊貞吉が福良教会に招いたのが笹尾牧師です。笹尾師はのちにホーリネスの神学校(東京聖書学院)で教え、その「イザヤ書講義」を今でも読めます。その中に「キリストを芽と言ったのは面白い」(p.30)と10章34節で当時の大国アッシリアを「林の茂み」になぞらえて対比していると指摘していることを、私はとても興味深いと思いました。

 このキリストとはどんなお方か?このお方には、「主を恐れる、知識の霊」(主を恐れ、主との親しい交わりに導く霊)(2節)がとどまります。この方は「主を恐れること喜びとし」(3節)、主を恐れて奉仕することを喜びとします。この方は外見やうわべによらず、公正な審判を貧しい者のために行ないます(11:3-5)。このキリストが「神の国」をもたらすのです。

2.「神の国」の本質(イザヤ書 11章6~9節)

 このキリストがもたらす「神の国」はどのような世界でしょうか。6~9節に描かれているのは、弱肉強食や競争社会とは正反対の、実に和やかな世界です。狼(おおかみ)と子羊、豹(ひょう)と子やぎ、子牛と若獅子と家畜が共におり、小さな子どもがこれを追って行くという不思議な光景です(6節)。敵対するはずの動物が共に食べ、共に住む世界です(7節)。赤ちゃんが毒蛇の穴の上で遊び、幼子がまむしの巣に手を伸ばしても大丈夫な世界です(8節)。切り株から生える新芽のように、滅んだも同然に思えるイスラエルの民に生まれるキリストがもたらす「神の国」とは、このような世界だと言うのです。その本質とは何か?

 「神の国」の本質とは、違った性質のお互いが「共に居る」「共に住む」ことです。『聖書』の最初の書物である「創世記」によれば、神様がすべてのものを造られた時、この世界はそのような姿でした。動物も植物も人間も共存し、共に分け合い、共に住むことができる世界だったのです。その中で人間はエデンの園で、動物や植物の世話や世界の管理を神様から任され、それが「仕事」であり「働くこと」の意味でした。これがこの世界の本来の姿です。神様が王として愛によって導き、人間も神様を愛して従う「神の国」と呼べる世界です。しかし、人間が神様を疑い、その命令を破り、神様に敵対してからは、世界は一変してしまいました。人と人とは共に分け合うのではなく、責任を押し付け合い、敵対し合うようになりました。人間が神様に敵対したために、この世界は動物や植物も共にうめき苦しむようになってしまいました。人間が破壊してしまった「神の国」はどうしたら回復できるのでしょうか。人間にできないことを神様はしてくださいました。神様はエッサイの根株から芽生えさせてくださるキリストによって、「主を知ることが、・・・地に満ちる」(9節)ように、神様と共に生活する「神の国」を回復させてくださるのです。自分の生活にイエス様をキリストとして迎える人は、神様との親しい交わりを楽しみつつ、神様を恐れ敬い従う「神の国」の国民として回復され、神様と人々と共に生きていくのです。

3.「神の国」の広がり(イザヤ書 11章10節)

 「その日になると」とは、キリストが今から約2022年前に西アジアで人として生まれた日であり、キリストが再び来られて「神の国」がこの地上に完成される日の両方であると言えるのではないでしょうか。私たちは今、キリストの「初臨」により十字架と復活によって「神の国」の回復が始まった日と、「再臨」の日の間の時代に生かされています。

 「エッサイの根」と呼ばれているキリストは、もろもろの民の希望と勝利の「旗」となり、再臨の日までにすべての国の人々に宣べ伝えられて、キリストを受け入れた人の日常生活には神様の愛による支配である「神の国」が始まり、「神の国」は全世界の国々へと広がり、そこに神様の恵みの「栄光」が輝くと約束されています(10節)。

 日本の私たちに「神の国をもたらすキリスト」が伝えられたことは、10節の主の約束の実現の一部です。18世紀英国のメソジストの指導者ジョン・ウェスレーはその説教『広がりゆく福音』で、鎖国中の「日本」の国名を挙げています。私はウェスレーが当時の日本にも思いを向けていたことに感動し、この教会の「献堂40周年記念誌」(2006年)の冒頭に記しました。「神の国」が広がりゆくという神様の約束は、今も実現しつつあるのです。

Ⅲ.むすび

 今日私たちは聖餐を共に受けます。「御国を来たらせたまえ」との祈りが完全な意味で「新しい地」として実現される再臨の日を待ち望み、イエス様の降誕の意味を想う待降節(アドヴェント)の日々を、「神の国」の国民として歩む命を養われましょう。

(記:牧師 小暮智久)