2022年11月20日 礼拝説教 「神に重んじられる人」

聖書: サムエル記 第1 2章27~36節

Ⅰ.はじめに

 先週木曜日、今は牧師を休み、別の仕事をしている友だちと昼食を共にしました。彼は、34年前に私が東京の神学校を卒業後、この教団の指示により大阪キリスト教短大神学科で1年学ぶために初めて大阪に来た時の神学科男子寮の寮長で、私より4つほど若い人です。時々彼の方からランチに誘ってくれてワリカンで様々な話をします。先日は、教会では『聖書』から神様のことはいろいろ聞くけれども、今の自分がどうなっていったらよいか、そうなるにはどうしたらよいかを身につける機会が少ないのではないか、というようなことをお互いに話しました。例えば、ある人が初めて教会に行き、礼拝に出席する。『聖書』に興味をもち、やがて「入門クラス」でイエス様や救いについて学び、イエス様を信じて救われる。その後、洗礼を受けたいと思って「洗礼準備クラス」で洗礼の意味やクリスチャン生活、教会生活のこと(聖書を読む、お祈りする、礼拝に出席する、献金する、奉仕する、伝道するなど)を学び、洗礼を受ける。その後は「ひとり立ち」というか、放り出されてしまう。「洗礼後クラス」というのもこの教会ではありますが、「自分が何をするか」が中心で、「どんな自分になるか」を身につける機会が、あまりないのではないでしょうか。洗礼を受けたあと、どんな自分を目指すのか、そうなるにはどうしたらよいのでしょうか?

 この教会の礼拝では、『旧約聖書』の「サムエル記」を今年1月から少しずつお聴きし、今日は前回9月18日の続きの所です。ここには、紀元前1070年ごろの西アジアのイスラエルの人々のことが書かれています。彼らは、神様に愛され、導かれた「神様の民」です。なのに、模範的ではなく、失敗があり、罪を犯します。それでも、彼らの子孫から救い主が生まれるという神様のご計画は進んでいきました。神様のお心は広く、不思議です。今の私たちもイエス様を信じて「神様の民」とされました。どんな自分になっていったらよいかについて、神様は今も、イスラエルの失敗や罪の実例を、私たちのための戒めや教訓とし、そうならないことを身につけるよう、導いてくださっているのではないでしょうか。

Ⅱ.みことば

1.「これまで」を振り返る(サムエル記 第1 2章27~30節)

 当時、神様に仕える祭司であるエリという人の所に、突然のお客さんがありました。その人は「神の人」(27節)と呼ばれ、名前は書かれていません。後の時代の「預言者」のような、神様のことばを預かり、それを伝える人でした。ですから、「主はこう言われる」という表現で始まる文章の中の「わたし」とは神様のことです。

 27~28節で、神様は「これまで」のことを振り返っています。「あなたの父の家」とはエリの先祖、イスラエルのレビ族のことです。「エジプトでファラオの家に属していたとき」とは、エジプトで奴隷であったときのことで、神様はご自分をエリの先祖たちに現わし、レビ族を選んで「祭司とし」(28節)、神様に仕える者とし、民が神様にささげる物を祭司に与えるようにされたのでした。このことを、今の私たちに重ねて考えてみると、私たちが神様から離れ、自分がすべてという束縛の中に、罪の奴隷のような状態であったとき、何かのきっかけで教会に行き、あるいは『聖書』と出会い、神様の語りかけや招きを知ってイエス様を信じ、私たちも神様の民とされ、神様を礼拝し、神様に仕える祭司のような立場とされたのと似ているのではないでしょうか。Iペテロ2:9~10をお読みします。

 次にエリは「なぜ」と問われました。29節をお読みします。神の民の祭司としてあなたは今、どうなのかという問いかけです。「わたしへのささげ物を…足蹴にする」(29節)とは、ささげ物の肉の脂肪の部分は焼いて神様にささげるよう神様が命じていたのに、エリの息子たちは焼く前に力ずくで取るなど、ささげ物を勝手に自分のものとしていたことでしょう(2:13~16)。エリは父親としての責任を、神様に問われたのでした。「なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじ」るのかとエリは問われたのです。このことは、私たちも問われているのではないでしょうか?今、私たちは「神の民」としてどうか?神にささげるはずの物を、自分のものとしてはいないか?時間もそうです。日曜日の礼拝の時間は、「主の日」の神様のものです。それを自分のものにしてはいないでしょうか?「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある」(マタイ6:21)とイエス様が言われた通り、お金もそうです。収入の10分の1は神様のものです。それをささげているでしょうか?

 「それゆえ」と宣告があります。30節をお読みします。レビ族とその子孫のエリの家は主の前に歩むはずでしたが「それは絶対にあり得ない」と言われたのでした。「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、・・・」(30節)とはズシンと心に響くのではないでしょうか。

2.「これから」についての約束(サムエル記 第1 2章31~36節)

 「見よ、その時代が来る」(31節)と「これから」のことが告げられています。「腕を切り落とす」(31節)という宣告は自由を奪うというような、象徴的な表現かもしれませんが、「年長者がいなくなる」(31節)と2回繰り返されるの(32節)は文字通りでしょう。今の私たちは「高齢化で若い人がいない」と嘆くことがありますが、人が長生きして高齢者が多く、年長者が多いのは、幸せなことではないでしょうか。ここでの「年長者がいない」という宣告は、エリの家族の寿命は短くなり、みな若いうちに死んでしまうという意味です。

 また、イスラエルの民が幸せな時でも「わたしの住まい」、つまり神殿は衰退すると宣告され、「わたしの祭壇から一人の人を断ち切らないでおく」(33節)と言われます。この一人の人とは誰か?(サムエルか,ほかの人か)。その「一人の人」の存在がエリのたましいをやつれさせ、エリの子孫は殺され、二人の息子は同じ日に死ぬと宣告されます(33~34節)

 これらのことを今の私たちに重ねてみるとどうなるか?このことを広げて「神様へのささげ物を自分のものとした人はのろわれる」という教えをつくり出し恐怖を植え付けるとしたら、それは「旧・統一協会」のようなカルト団体でしょう。ここで言われているのは、神様へのささげ物を自分のものとした息子たちと戒めなかった父親のエリを、神様は厳しく処罰すると言われ、それは今の私たちへの警告であるということではないでしょうか。

 エリの子孫に対する厳しい宣告は36節にもありますが、35節には神秘的な約束があります。神様が「起こす」と言われる、この「忠実な祭司」(35節,「忠実な」とは誠実さも意味する)とは誰のことか?サムエルだとか、ほかの人だとも言われますが、救い主イエス様をほのめかしているのではないでしょうか。へブル7:24~25をお読みします。

Ⅲ.むすび

 今の私たちも、神の民であるのに自分勝手なことをしてしまうかもしれない。その時に、このエリと息子たちの実例を見て教訓とし、自分の間違いに気づいたら、それを認めて、行動を変えるのです(これを「信じてからの悔い改め」と言う)。自分の弱さや失敗や罪に気がつく時、そこにはいつも「忠実な祭司」であるキリストが共にいてくださいます(へブル4:15~16)。自分の弱さや失敗や罪に気がつく時を、自分の気分を落ち込ませる時としないで、自分がキリストに似た者とされ、自分のうちにキリストがかたちづくられる(ガラテヤ4:19)ためのチャンスとし、神に重んじられる人とされましょう

(記:牧師 小暮智久)