2022年4月24日 礼拝説教 「洗礼を受けたなら」

聖書: マタイの福音書 28章16~20節

Ⅰ.はじめに

 先週は、どのようなことがあったでしょうか?つらいことや悩みも、イエス様は誰よりもわかっていてくださいます。私もあなたの状況や気持ちに、心を寄せたいと思います。

 私にとってはやはり、先週の洗礼式が嬉しいことでした。洗礼式に立ち会うたびに、自分の洗礼式を思い出します。私が洗礼を受けたのは48年前の4月、イースターの日で、11歳の時でした。イエス様を信じたのがその前の年の3月でした。教会学校の礼拝である日、宣教師の奥さんが「イエス様を信じた人は洗礼を受けるのです。洗礼を受けたい人は?」と言われ、私は「そういうものなんだ」と思い、手を挙げ、洗礼を受けることになりました。日本語があまりわからないデシェーザー宣教師による洗礼準備クラスで覚えているのは、洗礼式の問答ですべて「はい」と答えればよいということだけ。洗礼後のクラスもなく、聖餐式のことや献金のことなどもよくわかっていませんでした。牧師になってから、入門クラスや洗礼後のクラスなどを大切にしているのは、そのような自分の経験とも関係があります。洗礼を受けたなら、何が変わるのでしょうか?みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.キリストの弟子です(マタイの福音書 28章19節)

 洗礼を受けた人は何が変わるか?洗礼を受けたならば、キリストの弟子です。その人は、キリストに弟子入りしたのです。イエス様は復活後に弟子たちに言われました。19節をお読みします。「弟子としなさい」のあとに、「父と子と聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」とあります。つまり、キリストの弟子になったしるしとして、あの「父と子と聖霊の名によって」という、私も洗礼式の時にしていただいた三位一体の神様の権威によって洗礼を受けるのです。洗礼は、キリスト一門への弟子入り、入門のしるしであり、決して卒業や独立のしるしではありません。入門したばかりですから、準備クラスで学んでいても、その通りにはできないことがあるのは当然です。「身につく」という表現のように、弟子の作法を身体で覚えるまでには時間がかかり、失敗もあるのではないでしょうか。教会の「兄(あに)弟子」や「姉(あね)弟子」のようにすぐになれない自分を失格だと思う必要はありません。弟子入りしたばかりですから。洗礼を受けたならば「クリスチャン」や「教会員」ですが、「キリストに弟子入りしたのだ」と自覚することは大切ではないでしょうか。

2.弟子の仲間がいます(マタイの福音書 28章16~19節)

 「弟子」ということばには、西洋というよりは東洋、アジア的な響きを感じます。「彼はあの人の弟子だ」「弟子は師匠に似てくるなあ」などの表現は日本でも多いように思います。

 「キリストの弟子」は決して、ひとり孤独ではありません。16節をお読みします。イエス様の弟子は、決してひとりぼっちではありませんでした。弟子の仲間がいたのです。

 「キリストの弟子」は決して、完全ではありません。17節をお読みします。彼らは、今の私たちのように共にイエス様を礼拝しています。その中には「疑う者たちも」複数いました。イエス様の復活を疑ったのでしょう。疑いや未熟さがあってもキリストの弟子です。

 「キリストの弟子」はイエス様の権威のもとにあります(18節)。「天においても地においても、すべての権威が与えられ」たお方の弟子とされたとは何と心強いことでしょうか。

 「キリストの弟子」は仲間と共に行動します。19節をお読みします。「あなたがたは」と言われた通り、弟子たちはひとりではなく、仲間と協力して、人々を弟子とするように命じられました。自分の弟子とするのではありません。キリストの弟子とするのです。そのために、あらゆる国の人々の所に行き、バプテスマ(洗礼)を授けるのです。

 洗礼を受けたなら、私たちはキリストの弟子であり、弟子の仲間がいます。教会内に親しい人がいないと、教会を離れてしまう傾向があります。同じ教会に親しい人がいますか?私が洗礼を受けた教会は礼拝が20人ほどで同じ世代の人がほとんどいませんでした。でも、親しくなった人が何人かいました。洗礼を受けたなら、弟子の仲間です。「教友」だけでなく、あなたも最近洗礼を受けた人の「兄(あに)弟子」「姉(あね)弟子」になったのです。

3.弟子が守るものとは(マタイの福音書 28章20節)

 アイドルグループなどを応援する「ファン」と「弟子」との違いは何か?「ファン」はそのグループが好きだからという自分の気持ちが中心で、そのグループが自分の気持ちや期待からはずれていけば、「ファン」であることをやめるかもしれません。それに対して「弟子」というあり方は自分がどう思うかよりも、「師匠」がどう思うかを優先するのではないでしょうか。「弟子」ということばには、英語では「訓練を受ける人」というニュアンスがあります。「ファン」は応援するアイドルなどから訓練を受けないでしょうが(もしあってもいやならファンをやめるでしょう)、「弟子」は「師匠」の指導や訓練を受けるのです。

 20節前半をお読みします。「教えなさい」に注目しがちですが、何を教えるかと言えば、イエス様が命じたことを「守るように」教えなさい、と言われているのです。弟子が「守る」のは、師匠の命令であり、具体的には「命令に従う」ことです。では、イエス様の命令とは何か?例えば、すべてを尽くして神様を愛すること、自分の隣り人を自分自身のように愛すること(マタイ22:37~40)、また、弟子が互いに愛し合うこと(ヨハネ13:34)などです。洗礼を受けたなら、キリストに弟子入りしたので、これらの命令を守り従うのです。

 言われた通りに従うためには、訓練や練習が必要な場合があります。以前、町会の防災リーダーの訓練を受けるために消防学校に行ったことがあります。火事で煙がたくさん出た場合を想定して、身体を低くかがめて逃げる訓練を経験しました。こげたにおいがする建物で、暗闇の中で実際にやってみると腰はつらくむずかしいものです。キリストの弟子が、礼拝に出席する、神様との交わりの時をもつ、献金をする、誰かにキリストを紹介するということを「身につける」には、やはり何回も実際にやってみる「訓練」が必要ではないでしょうか。わからないことは先輩の弟子に聞いたり、相談したりして「身につけて」いくのです。「訓練」のガイドとして「恵みの手段」と呼ばれるものを教会は大切にしてきました。それは、「聖餐を受けること」「聖書を読むこと」「祈ること」「弟子と弟子が語り合うこと」などです。これらの手段を通して、私たちは困難な現実の中にあっても、「キリストの弟子」として養われ、力を受け、キリストのご命令に従うことができるのです。

Ⅲ.むすび

 コロナ禍でなくても先が不確かな現代、イエス様を救い主と信じてキリストに弟子入りすることに勝る確かさはありません。20節後半をお読みします。洗礼を受けたなら、「世の終わりまで、いつも」共にいてくださるイエス様の弟子一門に入門した者として、今週も互いに励まし合い、師匠であるイエス様に似た者とされましょう。

(記:牧師 小暮智久)