2022年4月17日 礼拝説教 「復活は本当か?」

聖書: マタイの福音書 27章62節~28章15節

Ⅰ.はじめに

 2月14日はバレンタインデー、3月14日はホワイトデー、4月14日にも呼び名があるのを先週知りました。オレンジデーというのだそうです。オレンジなどが売れるようにと考えられたのかもしれません。今日は全世界のキリスト教会でイースターが祝われています。イースターとは何の日でしょうか?最近はライフなどのスーパーでも「キリストの復活を祝う日」と説明されていて、それにちなんだお菓子が売られています。「復活」とは、死んだ人がよみがえることです。ふつうはそんなことはありませんね。「生き返ること」はたまにありますが、それとは違います。生き返った人は、またいつか死にますが、よみがえった人は死にません。イエス様がよみがえった、復活したというのは本当でしょうか?

Ⅱ.みことば

1.復活を否定したかった人々(マタイの福音書 27章62~66節)

 今から2000年ほど前の春の土曜日でした。土曜日は当時のユダヤ人にとっては仕事をしてはいけない日、神様を礼拝する日だったのに、わざわざその日に、自分たちを支配しているローマ帝国の総督ピラトという人のところに行った人々がいます。それは、イエス様を十字架につけて死刑にした「祭司長たちとパリサイ人たち」(62節)です。

 彼らは何をしに行ったのか?彼らが言った「人を惑わすあの男」(63節)とは誰のことか?それは、前の日に十字架で死んだイエス様のことです。「私たちは思い出しました」(63節)と言っています。「わたしは3日後によみがえる」と言っていたのを思い出したのが、イエス様を十字架で処刑した人々だったのは不思議です。彼らはなぜ思い出したのか。何か、やましかったのか、とにかく気になったのでしょう。弟子たちが死んだイエス様のからだを墓から盗み出して「ほら、復活したぞ」と言わないための対策を、総督にお願いしたのでした。それは、お墓の前に番人をおくこと、ローマの兵士にお墓を見張らせることでした。彼らは、弟子たちが何もできないように、復活を否定するために必死だったのです。

2.日曜日に起きたこと(マタイの福音書 28章1~10節)

 当時のユダヤでは太陽が沈んだ瞬間が一日の始まりでした。おもしろいですね。休んで眠ることから一日が始まります。眠っている間に神様が働かれ、朝、私たちが目をさまし、神様の働きに参加するというリズムです。「安息日」(1節)という仕事をせず神様を礼拝する日は金曜日の日没から土曜日の日没までで、それが終わり日曜日の明け方、仕事始めのようにお墓に行ったのは誰か?12人の「使徒」ではありません。彼らは復活を期待せず、イエス様がそう言われたのも忘れていたかもしれません。お墓に来たのは、二人の女性たち。彼女たちが来たのも復活を期待してではなく、イエス様のおからだに良い香りのものを塗って葬りをきちんと終わらせるためでした。そんな日曜日の朝、何が起きたのか?

 2~4節をお読みします。横穴を掘って造られた当時の墓の入り口をふさぐ石を、天使がころがし、大きな地震が起こり、見張りのローマの兵士は気絶してしまいました。二人の女性は気絶せず、み使いのことばを聞きます。5~7節をお読みします。み使いたちは、十字架につけられたイエス様を女性たちがさがしているのを知っていました。そして、「ここにはおられません。・・・よみがえられたのです」(6節)と告げたのでした。

 そう聞いた彼女たちはどうしたか?急いでお墓から去り、言われた通りに弟子たちに知らせようと走って行きます(8節)。すると、なんと、イエス様ご自身が「おはよう」と言って彼女たちの前に現われました(9節)。その日曜日にはこのようなことが起きたのです。

3.復活を隠そうとした人々(マタイの福音書 28章11~15節)

 彼女たちが弟子たちに知らせるよりも早く、この出来事を都で報告した人々がいます。それは、復活を否定するためにお墓で見張りをしていたローマ軍の兵士たちです。11節をお読みします。何を報告したのか?「起こったことをすべて」とあります。気絶していた間のことはわからないでしょうが、み使いが現われ、石がころがされ、気がつくと、墓の中のイエスのからだがなくなっていたということなどを報告したのでしょう。

 その報告を聞いた人々はどうしたか?この「祭司長たちと長老たちは集まって協議し」(12節)とは、ユダヤ人にとっては今の「国会」のような会議です。彼らは、兵士たちに口止め料として大金を渡し、「眠っている間に弟子たちがイエスを盗んで行った、と言いなさい」と命じました。これが当時の「国会」の正式決定だったのです。見張りの兵士が眠っていたら当時は死刑でしたが、そこは総督をうまく説得するからと言われ(14節)、兵士たちはお金をもらって、うそを人々に広めたのでした(15節)。ユダヤの指導者たちはなぜ、そうまでして、イエス様の復活を隠したかったのか?自分たちより人気のあるイエス様を十字架で処刑して息の根を止めたはずなのに、もし復活したら今度こそ都合が悪いと思ったからでしょう。イエス様のご遺体を人々に示せば復活を否定できたはずなのに、なぜ、こんなうそしか言えなかったか?ご遺体はなく、イエス様の復活が本当だったからです。

Ⅲ.むすび

 イエス様の復活を否定し、隠そうとした人々によって、かえって、イエス様は本当に復活されたのだということがはっきりと示されているのではないでしょうか。

 今の学校で習う歴史の教科書では「弟子たちにはやがて『キリストは復活した』という信仰が生まれ、それが伝えられてキリスト教は世界的な宗教になった」と説明されるそうです。しかし、イエス様が十字架で死なれたあとの弟子たちは、人々を恐れて逃げ、復活など期待せず、復活を最初信じられず、イエス様に会ってもなお「疑う者たちもいた」(17節)のです。そんな弟子たちに、復活が本当でないのに、「キリストは復活した」という信仰が自然に生まれるでしょうか。最初は復活を信じられなかった弟子たちがのちに、人々からおどされても、「イエス様は復活した」と伝えたのは、復活が本当だったからです。

 イエス様が復活されたことによって、十字架で死なれたのが私たちの身代わりとして完全で、私たちの罪の赦しと救いが確かだと示されました。また、私たちの人生は死んで終わりではなく、『聖書』の約束通り、新しい身体に復活するのだと示されたのです。イエス様の復活が日曜日だったのを記念して、当時働く日だった日曜日に人々は集まって礼拝するようになり、休日となり、それが世界に広がっていきました。日曜日がお休みなのはイエス様が復活した証拠です。日曜日ごとに集まり、礼拝しましょう。

(記:牧師 小暮智久)