2022年2月27日 礼拝説教「神の国は実を結ぶ」

聖書: ルカの福音書 8章 1~15節

Ⅰ.はじめに

 昨年12月に植えたチューリップの球根が芽を出し、少しずつ伸びてきました。今回は、昨年の春に咲いたチューリップの球根にできた子どもの球根もとっておいて植えました。小さくて本当に芽が出るかなあと思いましたが、その子どもたちも芽を出しました。どう育っていくのか楽しみです。そのように実が結ばれていくのは不思議ではないでしょうか。

 この教会の礼拝では2017年5月から「ルカの福音書」を少しずつ聴き、今日は前回1月23日にお聴きした所の続きです。神様のことばである『聖書』に耳を傾けましょう。

Ⅱ.みことば

1.「神の国」に仕える人々(ルカの福音書 8章1~3節)

 「その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた」(1節)とあります。約2000年前、西アジアのガリラヤやユダヤ地方でイエス様というお方は人々に多くのことを語られました。そのテーマは何か?それは「神の国」です。「神の国」とは何か?

 『聖書』の大切なテーマである「神の国」は、「天の御国」とか「天国」とも言い換えられますので、私たちが死んでから行く所と誤解されてしまうことがあります。「神の国」とは、「神の王国」です。神様が王として支配している領域が「神の国」です。この全世界と最初の人アダムとエバを神様が造られた時、人は自発的に神様を信頼し、神様の支配を喜んで受け入れていましたから、エデンの園の生活はこの地上での「神の国」と言えたと思います。人は良いものとして造られ、神様に愛され、自由な意志で神様を信頼し、神様を愛し、最初の夫婦アダムとエバは幸せでした。その幸せはかなり長く続いたと推測します。

 「神の国」は神様の強制的な支配ではなく、神様と人との両方の自由な意志による「両想い」の関係でした。ある日この夫婦は悪魔の誘惑にのり、神様の愛を疑い、神様の命令に背いてしまいます。その結果、「神の国」はこわれ、神様と人との間の、自由に認め合い愛し合う関係は破れてしまいました。人は神様の愛による支配から離れて自由になるどころか、生きる意味を失い、命の源である神様から離れて滅びる存在となってしまいました。

 しかし、神様は決して見離さず、熱烈な「片想い」の愛を私たちに向け、「神の国」を回復しようとご自身のひとり子イエス様をこの世界に送られました。イエス様は「神の国が近づいた」(マルコ1:15)と言われ、「もう神の国は…来ている」(ルカ11:20)とも言われました。イエス様こそ、この世界に「神の国」を来たらせたお方です。イエス様を信じ受け入れた人に、その時から「神の国」は始まります。なぜなら、イエス様を信じた人は、神様の愛による支配を受け入れ、自由な意志で神様を大切に愛するようになり、神様と「両想い」の関係になるからです。この「神の国」の一員となり、仕えた人々がここに記されています(1節後半~3節)。それは、12弟子と女性たちです。3節の「ヘロデ」はおそらくガリラヤ地方の領主だったヘロデ(ルカ3:1)で、幼少期のイエス様を殺そうとしたヘロデ王の息子です。領主ヘロデの執事の妻が、財産をもって彼らに仕えていたのは印象的です。

2.「神の国」の広がりかた(ルカの福音書 8章4~15節)

 イエス様は集まってきた人々に「たとえを用いて」(4節)話されました。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた」(5節)と始まります。日本で種をまく場合、畑を耕し、うねを作るなど、種がムダにならないように丁寧にまくだろうと思います。しかし、当時のユダヤ地方では違いました。気前よく、というか、広くばらまくのです。種は同じでも、種が落ちた土地によって、種のその後が決まるというのがこの「たとえ話」です。最初は「道端」(5節)。芽を出すまでいかない。次は「岩の上」(6節)。芽を出し成長するが、枯れてしまう。その次は「茨の真ん中」(7節)。芽が出るが、茨の芽も出た。茨が伸びてふさいでしまう。最後は「良い地」(8節)。芽を出し成長し、100倍の実を結びました。私は以前「最初から良い地にまけばいいのに」と思いましたが、イエス様は大声で言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)。「大声で」ということは、このことが強調されているのです。「聞く気があるなら本気で、聞き方によく注意して聞きなさい」という招きではないでしょうか。

 この「たとえ」はどういう意味なのでしょうか?弟子たちも尋ねます(9節)。イエス様はどう答えられたか?10節をお読みします。この時点では、弟子以外の人たちが聞いても悟ることがないためだと、「旧約聖書」のイザヤ書6章9節を引用して答えられました。「本当に聞こうとしないなら、わからないようにするため」とも言えますし、「イエス様を信じて神様に立ち返るなら、わかるようになるため」とも言えるでしょう。

 イエス様はこのたとえの意味を説明されました。「種」は神のことばです(11節)。「神の国」が来たこと告げる「福音」(1節)のことだとも言えるでしょう。最初の「道端に落ちたもの」(12節)とは、神様のことば、福音を聞いても、悪魔がそれを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。次の「岩の上に落ちたもの」(13節)とは、みことばを聞くと喜んで受け入れますが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときには身を引いてしまう人たちのことです。その次の「茨の中に落ちたもの」(14節)とは、みことばを聞いたのですが、時がたち、生活の心配や富がふさいで実が熟すまでにならない人たちのことです。最後の「良い地に落ちたもの」(15節)とは、みことばを「立派な良い心で」(一時的でなく生涯一貫して、裏表なく誠実に)聞き、「忍耐して」実を結ぶ人たちのことです。

 なぜ、神のことば、福音は、気前よく、ムダと思えるほど広くばらまかれるのか。それは「神はすべての人が救われて、真理を知るようになること望んでおられ」(Iテモテ2:4)るからです。以前の来会者等に教会の係の人が「福音版」を毎月郵送するのも、伝道集会の案内チラシを近隣の家々に区別なく配るのもそのためだと言えるでしょう。また、同じようにみことばを聞いて、ある人は信じ、ある人は信じないのはなぜか?同じように洗礼を受けて、ある人はずっと信じ続け、教会にとどまり続け、ある人は洗礼を受けて時がたつと教会に来なくなるのはなぜか?これらへの答えが、ここにあるのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 「神の国」は、神様からの愛に、自分がどう応答するかで、実を結ぶかどうかが決まります。それほどに神様は私たちの自由意志を尊重しておられます。しかも、土地にたとえられるその人の状態は、いつも同じでなく変わり得るのではないでしょうか。まず自分が良い土地であるように誠実と忍耐を祈り求め、身近な人のためにも祈りましょう。特に「しばらくは」(13節)と「時がたつにつれ」(14節)が心に留まりました。時間の経過は私たちを試します。イエス様を信じ洗礼を受けて1年,3年,5年と時が過ぎても、イエス様とつながり、教会とつながっていることが大切です。困難な時も、退屈な日も、神様の愛を全身で受け、神様への信頼と神様を愛する忍耐を日々育てていただきましょう。そのためにも週報の「今日のみことば」で『聖書』を読み,みことばを聞きましょう。

(記:牧師 小暮智久)