2021年10月31日 礼拝説教「神の民に加えられて」

聖書: 創世記 49章19~33節

Ⅰ.はじめに

 今日は何の日でしょうか?世間はハロウィン、年々盛んになっているようですが、キリスト教会のお祭りではありません。私たちプロテスタントの教会にとっては、今日は「宗教改革記念日」です。そもそも教会はどのように始まり、なぜプロテスタントとかカトリックなどの違いがあるのでしょうか?教会は約2000年前、イエス様によって始まりました。イエス様を信じて洗礼を受けた人は誰でも、イエス様が「わたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と言われたキリストの教会の一員とされています。西アジアのエルサレムから始まった教会は、11世紀の初めに東(主にアジア方面)と西(主にヨーロッパ方面)に分かれます。東の教会は「正教会」と呼ばれ、今のロシア正教会、ギリシャ正教会などです。西の教会は「ローマ・カトリック教会」です。16世紀にカトリック教会で「免罪符」(正式には贖宥状)というお札が売られ、それを買えば罪が赦されるとされました。カトリック教会のルターという司祭は「それはおかしい」と思い、ほかにも当時の教会の疑問点を質問状にして掲示板に張り出したのが1517年の今日です。教会はルターを「反抗した(プロテストした)者だ」と破門しました。しかし、ローマ教皇の権威よりも『聖書』の権威を重んじるルターの仲間は増え、「プロテスタント教会」と呼ばれるようになったのです。私たちの教会は、英国での宗教改革で誕生した「英国国教会」の中の改革運動から生まれたメソジスト教会が母体で、アメリカで「フリーメソジスト教会」となり今年で161年です。カトリックでは礼拝を「ミサ」、教職者を「神父」(正式には司祭)と呼ぶなど違いはありますが、同じ「神の民」として、今では共同で『聖書』を翻訳するなど、協力もしています。

 私たちの教会は礼拝で2004年から「創世記」を少しずつお聴きして17年、今日は前回9月26日の続きで、50章まである「創世記」のいよいよ大詰め、49章の後半です。神様は、今日お聴きしたみことばによって、今の私たちに何を語りかけているのでしょうか。

Ⅱ.みことば

1.息子たちへの祝福(創世記 49章19~28節)

 父ヤコブは死を前にして12人の息子たちを呼び寄せ、ひとりひとりに祝福のことばを与えました。それは、息子たちの子孫による12の部族の将来の預言でもありました。

 19節では息子ガドとその子孫について、敵に襲われるが反撃することが言われています。

 息子アシェルとその子孫については、その食物が豊かになることと、「王のごちそう」と言われる高級なメニューが作られることが言われています(20節)。

 息子ナフタリとその子孫については、「放たれた雌鹿」のように活動的な部族になることが言われています(21節)。このナフタリや前回見たゼブルンという部族は、『旧約聖書』が記すイスラエルの歴史では目立ちませんが、彼らが住んだガリラヤと呼ばれる地方がのちに、救い主イエス様が活動を始める場所となったのは興味深いです(マタイ4:12~17)。

 11番目のヨセフとその子孫については最も長い祝福のことばがあります(22~26節)。23節はヨセフが若い時外国に売られた苦難でしょうか。続いて、敵への勝利と神様の御名が何度も語られます。「ヤコブの力強き方」「イスラエルの岩である牧者」(24節)、「父の神」「全能者」(25節)などです。この神様による「天の祝福」(日の光や雨)、「大水の祝福」(川の流れ)、子孫が増える祝福が約束され(25節)、永遠の祝福が語られます(26節)。

 末の弟ベニヤミンとその子孫については、攻撃的で勇敢な部族であることが予告されます(27節)。さばきつかさ(士師)の一人エフデや最初の王サウルはこの部族出身です。

 父ヤコブは12人の息子に「それぞれにふさわしい祝福を与えた」(28節)とあります。彼らの子孫であるイスラエルの12の部族は、それぞれの特徴や賜物を生かし、神の民イスラエルの全体に仕え、神様の前に一つであることを期待されていました。実際にはどうだったか?やがてイスラエルの民は北と南に分裂し、どちらも外国に占領されてしまいます。では、ヤコブのこの祝福の預言はどうなったのか?約2000年前に救い主イエス様が来られ、その十字架での死と3日目の復活ののちにかたちづくられた「キリスト教会」において実現しつつあるのではないでしょうか。プロテスタント、カトリック、正教会など歴史的な違いはありますが、今は互いの理解や交流が深められつつあり、共に主に仕えることが期待されています。「神の民」である「教会」の私たちお互いは、それぞれ違う特徴や賜物を生かし合って一つとなって神様を礼拝し、神様に喜ばれるように歩みましょう。

2.ヤコブの遺言と死(創世記 49章29~33節)

 父ヤコブの最後のことば、言わば遺言が始まります。その内容は何か?29節を読みましょう。今ヤコブがいるのはエジプトですが、「ヒッタイト人エフロンの畑地にある洞穴」(29節)とはカナン、今のイスラエルです。そこは祖父アブラハムが現地のヒッタイト人から買い取った墓地で(30節)、先祖代々の墓であり、両親と妻のレアも葬られています(31節)。そこが現地の人から買った自分たちの所有地であることが30節に続いて32節でも繰り返され強調されていることには何らかの意図があるのでしょう。ヤコブの遺言には、ただ生まれ故郷にとか、血のつながりのある先祖と共にという人間的な思いではなく、神様の約束を信じた「神の民」の信仰の証しとして、神様が約束された地に葬ってほしいという意志が明確です。ヤコブが愛したもう一人の妻ラケルは別の場所(ベツレヘムへの道,創世記35:19参照)に葬られていますが、ヤコブはそこに一緒にという感情的な判断ではなく、「神の民」として信仰によって葬られる場所を選んだことになるのではないでしょうか。

 そして、ヤコブはついに「息絶え」(33節)ます。ここに「自分の民に加えられた」という表現があります。死ぬことが、「自分の民に加えられた」と表現されるのです。これは、29節にもあり、『旧約聖書』に特徴的な表現のようです。創世記25:8,17,35:29,申命記32:50などにあります。「自分の民に加えられる」とは「お墓に葬られる」という意味ではなく、先に神様のもとに召されて死後も存在し続けている人々の仲間に、その民に加えられるという意味です。つまり、死んだ人は存在が無くなったのではなく、神様のもとで今も存在していることがほのめかされ、言わば天にある「神の民」に加えられるということです。

 私たちはイエス様を信じて洗礼を受けて、正式に「神の民」とされ、具体的にある「教会」のメンバーとされて聖餐を受けて養われ、「神の民」「教会」の一員としてそれぞれが精一杯神様に仕え、それぞれに役割と責任を果たし、「教会」の一員としてイエス様を人々に伝え、「神の民」の仲間と共に歩み、召された時には天の「神の民」に加えられるのです。

Ⅲ.むすび

 イエス様を救い主と信じた人は、アブラハム、イサク、ヤコブと共に「神の民」に加えられました。生かされている間に「神の民」「教会」の中で果たす役割や責任は、死んでからの「神の民」の中での報いと託されるものに関わることでしょう。

(記:牧師 小暮智久)