2021年10月24日 礼拝説教「笛吹けど踊らず」

聖書: ルカの福音書 7章 24~35節

Ⅰ.はじめに

 日本でよく知られている言い回しやことわざの中に、『聖書』のことばから来ているものがあるのは興味深いことです。たとえば、「目からうろこが落ちる」という言い回しは『新約聖書』の「使徒の働き」の9章18節から来ていますし、「豚に真珠」という言い方は同じく『新約聖書』の「マタイの福音書」の7章6節のイエス様のことばがその由来です。「笛吹けど(も)、踊らず」もその一つで『聖書』から来ています。意味を手元の辞書で調べてみましたら「人に何かをさせようと、いろいろ手をつくして働きかけても、いっこうにそれに応じないことのたとえ」と書かれていました。日本の国語や文化には、意外と『聖書』が影響を与えている面もあるのかもしれません。

 私たちの教会の礼拝では2017年から「ルカの福音書」を少しずつお聴きし、今日は前回お聴きした9月12日の続きの場面です。イエス様はこの「笛吹けど踊らず」ということばで何を言いたかったのでしょうか?今の私たちに何を語っておられるのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.ヨハネと人々の反応(ルカの福音書 7章24~30節)

 『聖書』を読む時に大切なことの一つは、「誰が、誰に、何を、どうした」ということをはっきりさせることではないでしょうか。ここは、「イエス様」が、「群衆」に、「ヨハネについて」、「話し始められた」という場面です(24節)。

 イエス様が話されたこの「ヨハネ」(英語圏ではJohnと言います)とは誰でしょうか?イエス様の弟子にもヨハネという人がいます。弟子のヨハネは「ヨハネの福音書」などを書きました。しかし、イエス様が今話題にしているヨハネは別の人です。このヨハネの誕生については、「ルカの福音書」だけが書いています。父はザカリヤ、母はエリサベツで、高齢の両親のもとに誕生した時に、救い主のために「道を備え」(1:76)ると預言されていました。その通りにヨハネは成人してからユダヤの荒野で人々に、悔い改めて神のもとに立ち返るようにと呼びかけました。その呼びかけに応じた人に「悔い改めのバプテスマ」(3:3)をヨルダン川で授けたので「バプテスマ(洗礼者)のヨハネ」とも呼ばれます。ヨハネはその後、領主ヘロデの悪事を恐れず非難したため、牢に入れられていたのでした(3:19-20)。

 イエス様は群衆に問いかけます。24~26節を読みましょう。このヨハネとは何者か?27節を読みましょう。「~と書かれている」(27節)とは『旧約聖書』のことで、「新改訳2017」の27節の脚注の一つ、「マラキ書」の3章1節を読みましょう。神様から派遣されて救い主のために道を備えると神様に約束されていた人、それがこのヨハネだとイエス様は言われたのです。彼の存在の興味深さは次のことばに極まります。28節を読みましょう。どういう意味か?ヨハネが「神の国」に入れないという意味ではありません。ヨハネは救い主イエス様が来られる前に人として生まれた者としては最も偉大だが、救い主が来られて「神の国」が始まり、イエス様を信じて神の子どもとして新しく生まれ「神の国」の国民とされた人は、そのヨハネよりも偉大な恵みの立場を与えられているという意味です。

 従って、ヨハネが指し示したイエス様を救い主と受け入れた人は、当時さげすまれていた取税人も含め、「自分よりも神が正しい」と認める反応をしたのであり(29節)、ヨハネよりも偉大だと言われる「神の国」の国民とされたのです。反対に、「パリサイ人たちや律法の専門家たち」(30節)という、『聖書』をよく読み、従っていると自信満々の人々は、ヨハネを拒み、「神のみこころ」を拒んだのでした(30節)。今の私たちもイエス様を信じているなら「神の国」の国民です。この立場のすばらしさをわきまえているでしょうか。

2.この時代の人々と真の知恵(ルカの福音書 7章31~35節)

 ここでイエス様は私たちに「この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか」と問いかけられます(31節)。その答えの一つとして「笛吹けど踊らずと言っている子どもたちに似ている」という言い回しが出てくるのです。これは、当時の子どもたちの遊びの場面です。「笛を吹く」とは結婚式での笛を指すようで、言わば「結婚式ごっこ」の遊びです。「弔いの歌を歌う」とは言わば「お葬式ごっこ」のひとコマです。どちらも、ヨハネとイエス様についての「この時代の人々」(31節)の反応をたとえて表現しているのです。「今の世論や民意や時代の空気は、ヨハネやイエス様にどう反応しているか」ということでしょう。

 2つの理解の仕方があるようです。1つは「子どもたち」を「この時代の人々」と理解し、「この時代の人々は、禁欲的なヨハネに結婚式の笛を吹いたが踊らず、自由な人イエス様に弔いの歌を歌っても泣いてくれなかった、と不平を言っている」という理解です。要するに、この時代の人々は、自分たちの思うように動かない人には不満なのだと、イエス様は言いたかったことになります。もう1つは「笛を吹く子どもたち」をイエス様、「弔いの歌を歌う子どもたち」をヨハネと理解し、「自由な人イエス様が結婚式の笛を吹いて喜びの福音を伝えても踊らず、ヨハネが悔い改めという弔いの歌を歌っても誰も泣かなかった、というのがこの時代の人々の姿だ」という理解です。要するに、この時代の人々は、誰が何を言っても生き方を変えようとしないと、イエス様は言いたかったことになります。

 この2つのどちらが正しいとしても、共通しているのは、この時代の人々の無関心さ、身勝手さ、あるいは、あまのじゃく、つむじまがり、頑固なかたくなさと言えるでしょう。今の時代の世論や人々の思いも似ているのではないでしょうか。それは、次のことばにもよく現われています。33~34節を読みましょう。「人の子」とはイエス様がご自分のことを言う時の表現です。ヨハネとイエス様は、その時代の人々には両極端に見えたのでしょうが、表面的にではなく、他人事としてでもなく、先入観や偏見を捨てて、どちらも神様から遣わされた人として、受け入れることが本当の知恵、かしこさではないでしょうか。

 「しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します」(35節)とイエス様は言われます。「新改訳2017」の35節の脚注には「箴8:1~36」とあります。開いてみましょう。この箴言8章は「交読文」35番で交読します。ここに出てくる「知恵」とは、この世界に来られる前のキリスト、知恵であるキリストだと言われます。正確に言えば、永遠の昔から父なる神、聖霊なる神と共におられ、創造のわざに参与された「御子」である神のことが「知恵」と呼ばれているのです。特に8:35~36を読みましょう。この「知恵」であるキリストが正しいことは、「知恵の子ら」、イエス様を信じる人々が証明するのです。

Ⅲ.むすび

 多くの人々はイエス様を表面的にしか見ず、イエス様ご自身を受け入れませんでした。私たちはイエス様が語った「神の国」のメッセージを素直に聞き、私たちのために十字架で死んでくださり、3日目に復活されたイエス様ご自身を受け入れ、「神の国」の国民とされ、今週、「神の国」の国民らしく主の心に沿って歩みましょう。

(記:牧師 小暮智久)