2021年8月15日 礼拝説教「悲しみと向き合って」

聖書: ルカの福音書 7章 11~17節

Ⅰ.はじめに

 今日は日本が第2次世界大戦、太平洋戦争で敗れて76年目の敗戦記念日。今月は6日、9日、15日と忘れてはならない日があります。先週9日は長崎が核攻撃を受け、原子爆弾が落とされた日。長崎市長は平和宣言の冒頭、今年4月に93歳で召された被ばく修道士・小崎登明(おざき とうめい)さんの手記の文章を引用しました。それは「核兵器は、普通のバクダンでは無いのだ。・・・このバクダンを二度と、繰り返させないためには、『ダメだ、ダメだ』と言い続ける」という文章です。小崎さんは1945年8月9日、魚雷を作るトンネル工場の中で被ばく。ただ一人の家族だった母親の骨も見つかりませんでした。小崎さんが入った修道院の創設者はポーランドのマキシミリアノ・コルベ神父という人です。このコルベ神父は長崎で伝道後、アウシュビッツ強制収容所に送られ、死刑宣告を受けた男性の身代わりとなり、餓死による死刑で処刑されました。小崎さんは生前、「原爆で終わったら希望がない。だからコルベ神父の『身代わりの愛』を伝えたい」と話していたそうです。

 私たちの教会の礼拝では2017年から「ルカの福音書」を少しずつお聴きし、今日は前回6月20日の続きの所です。先の戦争で、空襲で、原爆で、あるいは特攻で、玉砕で、どれほど多くの死があったでしょうか。遺された人々にはどれほどの悲しみや絶望や孤独があったでしょうか。イエス様というお方はこれらとどう向き合われるのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.イエス様とある母親(ルカの福音書 7章11~13節)

 誰かと町でバッタリ出会うタイミングを不思議だなあと感じることがあります。イエス様はこの時、偶然ではなく、この母親と出会おうとして町の門に来られたのかもしれません。どんな母親だったのでしょうか?12節を読みましょう。一人息子が死んでしまったのです。母親はどんなに成長を喜び、息子のこれからにどれほど期待していたでしょうか。しかも、母親はやもめでした。夫に先立たれたのです。何歳の時であったか、わかりません。息子がまだ小さい時かもしれません。息子のために、と思えばどんな苦労でもと思ってがんばって働いて来たかもしれない母親が、ひとりになってしまいました。

 当時は、死んだその日に遺体をお墓に葬ったそうです。私は以前、教会員のお葬式で、その地域の慣習によって、火葬をしたその日にお墓に納骨するというご家族に同伴し、月明かりのもとでの葬りに立ち会ったことがあります。先ほどまで召された方のお身体があったのに、お骨になってすぐに埋葬というのは、私にとっては気持ちの整理がつかない感じがしました。さきほどまでは虫の息ながら生きていた息子の身体を、死んだからとは言えその日に埋葬しなければならないこの母親に、イエス様はどう向き合われたのでしょうか?13節を読みましょう。「イエスは」でなく「主は」とあります。死に対しても「主」であり支配者であるイエス様は、母親を見て、「深くあわれみ」ました。これは上から見下すようなあわれみではなく、内臓が揺り動かされるような深い同情を表わす表現です。この母親の悲しみ、寂しさ、絶望に心を動かし、まるで共鳴するかのように共感されたのです。そして、「泣かなくてもよい」と言われました。この母親からの訴えや願い、信仰の表現などはないにもかかわらず、イエス様は慰めを与えることをほのめかしたのでした。

 先の戦争の時に、特攻隊の飛行場があった九州の知覧などで、どれほど多くの母親が息子を失う悲しみを経験したことでしょうか。死は、どんな年齢の死であっても、特に小さな子どもや若者の死は、どれほどの悲しみを身近な人にもたらすでしょうか。そして、イエス様ほどにその悲しみや寂しさに共感してくださるお方が、ほかにおられるでしょうか。

2.イエス様と若者、人々の期待(ルカの福音書 7章14~17節)

 イエス様はことばの人でしたが、ことばだけの人ではありませんでした。14節を読みましょう。イエス様は「近寄って棺に触れられる」のです。これは、当時は儀式的にけがれることで(民数記19:11)、身内でない限りしないことでしたが、イエス様は身内であるかのように棺に手をかけられたのです。そして、声をかけられました。死んでいた若者には、どのことばから聞こえたのでしょうか。「若者よ」という呼びかけから聞こえたのではないかと私は思います。イエス様のみことばは「死」という隔てを超えて、この若者に届いたと言えるでしょう。それにしても、この若者の身になって考えてみると、これはどんな経験だったのだろうかと思います。病気か何かで死んだ。真っ暗な所か、お花畑のような所かわかりませんが、地上とは違う場所にいる自分に、誰か知らない人の声が聞こえてくる。そんな経験でしょうか。15節を読みましょう。死人はいきなり起き上がり、ものを言い始める。若者は、自分に何が起きたのか、わからなかったでしょう。イエス様というお方さえ知らず、初対面です。母親のもとに返された若者は、このあとどうなったのか。書かれてないので不明ですが、イエス様に心を向けたことは確かではないでしょうか。

 この出来事を見た人々の反応はどうだったか?今ならマスコミが殺到するでしょう。16節を読みましょう。「偉大な預言者が現われた」と言った人々は、昔死人を生き返らせたエリヤ(Ⅰ列王記17:21~23)の再来だと考えたようです。「神がご自分の民を顧みてくださった」と言った人々は、昔の出エジプトの出来事を思い出し(出エジプト記2:25)、今自分たちを支配するローマ帝国からの解放を、イエス様に期待したのかもしれません。いずれにせよ、人々は出来事の表面だけを見て、自分に都合が良く、自分が願う通りの理想の生活をもたらしてくれるリーダーであることを、イエス様に期待したのではないでしょうか。

 しかし、イエス様が向き合われたのは、遺された人に悲しみや孤独をもたらす死と、その根本的な原因である私たち人間の神様に対する背きの罪、その結末である命の源である神様から永遠に切り離される悲惨な滅びでした。イエス様がこの世に来られたのはユダヤの国をローマの支配から解放して理想の国をもたらすためではなく、ご自身がすべての人の罪を身代わりに背負って十字架で死なれ、3日目に復活されることにより、神様が愛と恵みによって支配する「神の国」をもたらすためでした。イエス様を救い主と信じる人は、すべての罪を赦され、神様を王として喜んで仕え従えるように変えられ、神様を礼拝することが喜びとなる「神の国」の国民とされます。この若者を死から生き返らせたのは、イエス様がそのような「神の国」をもたらす救い主だと示すしるしのひとつだったのです。

Ⅲ.むすび

 今の私たちは、家族や自分のことで、悲しみや悩み、孤独や絶望感を感じ、希望が見えないで苦しんでいることが何かあるでしょうか?まさにそのような中にいた母親に出会われたイエス様は、私たちのまさにそこに来てくださいます。しかも、同情し共感してくださるだけでなく、みことばをもってみわざをなし、その悲しみや孤独の根源にあるものから解放し、「神の国」の国民として日々を過ごす喜びと望みを豊かにしてくださいます。家族や自分の将来のことで、今まであきらめていたこと、考えもしなかったことを、イエス様に期待して、祈り求め始めてみてはいかがでしょうか。

(記:牧師 小暮智久)