2021年8月8日 礼拝説教「神様の前で」

聖書: マタイの福音書 7章1~5節

Ⅰ.はじめに

 先週8月6日は広島に、明日9日は長崎に、76年前に原子爆弾が落とされた日です。核爆弾の攻撃を受けたことのあるただ一つの国として、平和をつくり出す使命を果たせるように、心からお祈りします。この世界を造られた神様がおられ、私たちはみな、神様の前で生かされており、いつでもどこでも神様に見られていることを本気で認めるなら、原爆を落とすような人の命を奪うことはできないのではないでしょうか。

 今日は、子どもと大人の合同の礼拝で、「教会学校」で読まれる『聖書』の所を読んでいただきました。「教会学校」は今、「山上の説教」というテーマです。「山上の説教」とは、イエス様がガリラヤ湖の近くの山の上で語られたことで、マタイの福音書の5~7章に書かれています。私たちは、イエス様を救い主と信じるときに、神様の子どもとされます。イエス様がこの説教で語られたのは、「神様の子どもの性質」(マタイ5章)、「神様の子どもの生活」(マタイ6章)、「神様の子どもの人間関係」(マタイ7章)というテーマだと言えそうです。神様の子どもとされた私たちは、自分の力や考えではなく、イエス様に頼って、生活していきます。ほかの人との関係も、自分の力ではなく、イエス様の愛と導きによって、助け合う仲間にされていくのです。イエス様は、自分の家族や友だちや同じ教会の人たちに、私たちが神様の子どもとして、どのように接することを命じられたでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.さばいてはいけない(マタイの福音書 7章1~2節)

 イエス様は、神様の子どもとされた私たちに「さばいてはいけません」(1節)と命じられました。「さばく」とはどういう意味でしょうか?それは、ほかの人の間違いや失敗を見つけて、その人を間違っていると決めつけることです。私たちは毎日の生活で、ほかの人の間違いや失敗に気づくと、「ダメな人だなあ」と決めつけてしまうことが多いのではないでしょうか。イエス様は、家族や友だちや同じ教会の人たちに対して「あの人は間違っている」と決めつける心が誰にでもあるのをご存じで、「さばくな」と言われたのでしょう。

 なぜ、さばいてはいけないのでしょうか?「自分がさばかれないためです」とイエス様は言われました。その人が正しいか、間違っているかを、本当に正しく決めることができるのは神様だけです。それなのに、自分が誰かを間違っていると決めつけるとしたら、自分をまるで神様であるかのように思っているのです。神様の子どもとされた私たちには、誰かを間違っていると決めつける資格がありません。私たちはみな、神様の前で生かされています。あの人も、この人も、そして自分も、同じ神様の前で生かされているのです。

2.見えるようになるために(マタイの福音書 7章3~5節)

 私たちは、ほかの人の間違いや欠点にはよく気づいても、自分のことには気づいていないことが多いのではないでしょうか。イエス様は、ほかの人の間違いや欠点のことを「兄弟の目にあるちり」(3節)と言われ、自分の間違いや欠点のことを「自分の目にある梁(はり)」(3節)と言われました。「ちり」は小さい物です。ほかの人の間違いは小さくてもすぐ気がついて「なんで、そんなことをするの!」と言いたくなります。逆に「梁(はり)」は家を支える太い材木です。自分の間違いはほかの人がすぐ気づくほどに大きいのに、「私には全然間違いはない」と思い込み、自分の間違いや欠点には全く気がつきません。

 なぜ、私たちはそんなに、自分ことがわからないのでしょうか?4節を読みましょう。家を支える太い材木であるその「梁(はり)」が、自分の目の中に入っていて見えなくなっているからだとイエス様は言われます。それは、自分を絶対に正しいとする心、神様の考えよりも自分の考えを優先する心ではないでしょうか。それが自分の目をふさいでいます。

 では、見えるようになるためにはどうしたらよいでしょうか?5節を読みましょう。自分の目から「梁(はり)」を取り除くには、自分のすべてを知っておられる神様の前に出ることです。神様の前で考えましょう。神様の目には、この自分はどのように見えているのでしょうか?神様の目には、自分の欠点も間違いもけがれもすべて見えています。にもかかわらず、神様の目には、自分は大切で愛されています。なぜなら、神様の目には、自分は神様によって造られた作品、世界に一つしかない傑作だからです。神様は、このような自分のためにイエス様をお送りくださり、イエス様は十字架で自分のすべての罪のために死んでくださり、3日目に復活され、イエス様を信じた自分を神様の子どもとしてくださったのです。目の前にいるほかの人も、自分と同じように、イエス様が身代わりに死んでくださったほど、神様に愛されている人であり、「兄弟」(3,4,5節)、神様の家族です。

3.互いに助け合うために(ガラテヤ人への手紙 6章1~5節)

 「さばいてはいけない」とは、誰にも何も言うなということでしょうか。そうではありません。そのことばや行ないに「イエス様からの愛があるかどうか」なのです。ある人ががけのそばにいるとします。しかし、茂みに隠れてがけは見えません。自分はその人の近くにいて、その人のそばにがけがあるのを知っています。さて、自分はどうするでしょうか?「さばいてはいけない」と言われているから、気づかないふりをして注意しないでしょうか。それとも、「そばにがけがあるから気をつけて!」と声をかけるでしょうか。同じがけのそばを歩いている者として、どちらが、イエス様からの愛による行ないでしょうか?

 ガラテヤ人への手紙6章1節を読みましょう。誰かが明らかに悪いことをしているとわかったなら、「柔和な心でその人を正してあげなさい」(1節)と命じられています。「柔和な心」とは、へりくだった心であり、神様の前で生かされているという謙遜な心です。「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」(1節)と言われているように、自分も同じようにがけのそばを歩いており、落ちる可能性があると認めるのです。つまり、イエス様を信じて神様の子どもとされているならば、その人は、自分がさばく相手ではなく、お互いに補い合い、助け合う仲間です。さばくのは神様だけであり、私たちは同じ神様の前に生かされている神様の子どもとして、お互いに助け合い、時に戒め合い、共に成長していく仲間です。「自分の行いを吟味し」(4節)、イエス様からの愛によって接しましょう。

Ⅲ.むすび

 私たちはひとりで生きることはできません。誰かとの関わりの中で生かされています。では、どう生きるか?自分を生かしていてくださる神様の前に、毎日出てお祈りし、イエス様からの愛をいただきましょう。礼拝堂には集まれませんが、お互いのためにお祈りし、神様の子ども、神様の家族として今週も共に過ごしましょう。

(記:牧師 小暮智久)