2021年6月20日 礼拝説教「おことばをください」

聖書: ルカの福音書 7章 1~10節

Ⅰ.はじめに

 4月の終わりの日曜日から出された新型コロナウイルスの感染に関わる3度目の「緊急事態宣言」が大阪府などでは今日までとなり、明日解除されようとしています。国の宣言ですから、その責任者は政府であり、菅首相ということでしょう。この場合、菅さんという個人に権威があるのではなく、首相という立場に権威があるので、首相のことばの通りに、緊急事態が宣言されていた場所では宣言は解除されるということになります。

 私たちの教会の礼拝では2017年5月から「ルカの福音書」を少しずつ共にお聴きしています。クリスマスやイースターなどはそれに関連する聖書の箇所からお聞きしていますが、今日は久しぶりに、「ルカの福音書」を開き、前回3月7日の続きの所をお聴きしました。ここから神様は、私たちに何を語りかけておられるのでしょうか?特に、イエス様というお方のことばがどのようにしてその通りになるのか、共に思いめぐらしましょう。

Ⅱ.みことば

1.お願いする資格とは(ルカの福音書 7章1~6節)

 ここに書かれているのは、いつ、どこで、の出来事でしょうか?いつか、と言えば、約2000年前、イエス様というお方が12人の弟子たちを選び、大ぜいの人々に6章20節から、ことばを重ねてお話をなさったあとです。どこで、と言えば「カペナウムに入られた」(1節)とあるように、アジアの西、ユダヤの国の北の方のガリラヤ湖の一番北の岸辺にあるカペナウムという町です。そこで、何があったのか?2節を読みましょう。「百人隊長」とは、ユダヤの国を当時支配していたローマ帝国の軍隊の100人の兵隊の隊長です。この人は比較的裕福で家にしもべがいました。「重んじられていた一人のしもべ」、この隊長がとても頼りにしていたしもべが、重い病気になり死にそうになっていたのです。

 この人は何を願ったのでしょうか?3節を読みましょう。イエス様がこの町に来られたと聞きました。弟子のペテロの家(4:38)もあったこの町で、以前多くの病気の人を治されたこと(4:40)も知っていたでしょう。しかし、自分はユダヤ人からは「異邦人」と呼ばれ、親しく話せない間柄です。それで、イエス様のところへ「ユダヤ人の長老たちを送って」、間接的にイエス様に「自分のしもべを助けに来てください」(3節)とお願いしたのでした。

 この人はどんな人だったか?4~5節を読みましょう。ユダヤ人の間では実に評判の良い人でした。ユダヤ人たちはイエス様に「あなたにそうしていただく資格のある人」(4節)と言い、ユダヤ人が礼拝するための会堂を建ててくれたとその功績を評価しています。

 「そこで」(6節)、イエス様は彼らと一緒にこの百人隊長の家に向かわれます。近くまで来た時、さらに使いが来ます。使いが言った伝言は何か?6節後半を読みましょう。自分にはイエス様を迎え入れる「資格はありません」。「この人は…資格のある人です」との人々の評判との対比がとても印象的です。私たちは神様に造られ、命を与えられ、生かされています。しかし、神様に背き、離れ、無関心となり、神様にもう一度受け入れてもらえる資格は自分にはありませんでした。徹底的に資格はないと認めたうえで、だからだめだとあきらめるのではなく、だめだからこそ神様が送ってくださった救い主イエス様にすがりイエス様のなさることに自分をおまかせするかどうか、が問われるのではないでしょうか。

2.ことばがその通りになるとは(ルカの福音書 7章7~10節)

 イエス様を家に迎え入れる資格はないと言ったこの人が、友人たちに伝言を頼んでイエス様に言ったことはさらに驚くべきことです。7節を読みましょう。自分には資格はない。だから、あきらめます。ではなく、「ただ、お言葉を下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」(7節)。イエス様が自分の家に来られなくても、イエス様と直接会えなくても、イエス様のおことばさえあれば、しもべは治る。この人の、イエス様のことばに対するこの絶対的な信頼は、いったいどこから来るのでしょうか。そのカギは「権威」というものにあります。8節を読みましょう。この人はローマの軍人として上官のもとにあり、最高の権威としてはローマ皇帝のもとにありました。この人の下にも兵士たちがいて、自分が「行け」と言えば行き、「これをしろ」と言えばそのようにする。つまり、権威のある人がことばを発すれば、その通りのことが起きるということを、この人は日常の中で、上官や部下との間で経験していたのです。ただ、この人は自分のしもべに「病気から解放されて生きよ」と言える力も権威もないと認めていました。人が生きるか死ぬか、死んで天国に迎えられるか、罪が赦されるか否か、などに関する権威はイエス様のみにあるからです。

 この人のことばを聞いて、イエス様はどうされたか?9節を読みましょう。イエス様は驚かれます。神様に選ばれたイスラエルの人々の信仰ではなく、当時の人々に、神様から遠く離れていると低く見られていた「異邦人」の信仰、しかも、自分には資格がないからと直接会わず、ただおことばだけでその通りになりますという信頼し切った態度を、「これほどの信仰」とイエス様は言われたのでした。「おことばを」と言われたイエス様が、この人のしもべのために何を言われたのか。ここには何も書かれていません。書かれていないだけに、この人のイエス様のみことばへの信頼が際立っているのではないでしょうか。

 使いの友人たちが家に帰るとどうだったか?10節を読みましょう。イエス様のおことばの通り、そのしもべは良くなっていたのでした。それは、イエス様の権威とそのみことばに信頼するという応答のあらわれでした。人が生きるか死ぬかなど、私たち人間の限界を超えた領域にもイエス様は権威をもっておられます。そして、神様によって生かされている私たちにとって最も大切な、神様と自分との関係にもイエス様は権威をお持ちです。神様によって造られ、生かされているのに、神様から離れ背いてしまった私たちの罪のために、イエス様は十字架で死んでくださり、墓に葬られました。しかし、それで終わらず、3日目に神様はイエス様を死から復活させたのです。このイエス様を自分の生活に救い主として信じ受け入れるとき、その人はすべての罪を赦され、神様の子どもとされます。それを保証するものは何か?それはイエス様のことば、聖書のみことばです。

Ⅲ.むすび

 思えば、百人隊長は一度もイエス様と会いませんでした。しかし、イエス様の働きを経験しました。なぜか?それは、イエス様のことばの権威と、そのみことばを信じるという応答によってです。2000年も昔のユダヤでのイエス様の十字架の死と復活が、今の日本の私たちにも意味があり、有効なのはなぜでしょうか?それは、イエス様のみことばの権威と、そのみことばを信じるという私たちの応答によってです。もし、自分が救われているか、天国に迎えられるか不確かさがあるなら、みことばを求めましょう。私の場合、小学4年の時にイエス様を信じ、6年の時に洗礼を受けていましたが、高校生の時、ヨハネ3:36を自分のための約束と受け取り確信を与えられました。日常生活で悩みや不安がある時、イエス様に「おことばを下さい」と求めて歩ませていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)