2021年6月13日 礼拝説教「何のための強さ?」

聖書: ヨシュア記 1章1~9節

Ⅰ.はじめに

 桜、ハナミズキ、ツツジ、アジサイなど、季節が移り変わると、きれいな花々も移り変わっていきます。今日は「花の日」と呼ばれる日です。165年前の1856年、6月第2日曜日、アメリカのある教会で、子どもと大人が共に礼拝をささげたのが始まりです。礼拝堂は多くのお花で飾られ、レオナード牧師は子どもたちに『聖書』をプレゼントし、神様の祝福をお祈りしたそうです。この「花の日」の礼拝は各地に広がり、「子どもの日」とも呼ばれるようになります。礼拝のあと、礼拝堂のお花を持ってお見舞いに行ったり、日頃お世話になっている人に感謝したりするようになりました。この教会でも以前、教会学校の子どもたちが、駅や消防署や高齢者の施設などにお花を持って行ったことがあります。

 今日は「教会学校」の『聖書』の所を読んでいただきました。「教会学校」はコロナウイルスの感染拡大に関する緊急事態宣言のため休会ですが、今は「荒野の旅」というテーマです。心配が多く先が見えない今の私たちの毎日も、荒野の旅と似ているかもしれません。「荒野の旅」というテーマの中での目標は「ご自分の民と共に歩んでくださる神に信頼する」ということです。神様に信頼するにはどうしたらよいか、みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.強くあれとは?(ヨシュア記 1章1~9節)

 今から3500年ほど前、エジプトでの苦しい生活から救い出されたイスラエルの人々は、モーセという人に導かれて水や食べ物がほとんどない荒野を旅して、神様が約束された地カナンを目指していました。人々は水がない時、食べ物がない時など、神様を信頼して従えば大丈夫だということを経験してきました。それなのに、いよいよカナンに近づいた時、「人々は強く、あそこへは行けない」という報告を聞くとその人々を信じ、神様を信頼しませんでした。その後、人々は40年間も荒野をさすらうことになり、最初の世代の人々はほとんど、約束の地に入れなかったのです。モーセも神様のもとへ召されていきました。

 神様は、ヨシュアという人を次のリーダーに立てました。神様はヨシュアに何を言われたでしょうか?まず、「・・・ヨルダン川を渡り、・・・与えようとしている地に行け」(2節)。また、神様の約束通りに与えられる地の範囲(3~4節)と、「わたしは・・・あなたとともにいる」(5節)という神様の約束。さらに「強くあれ。雄々しくあれ」という命令が3回も繰り返されています(6,7,9節)。この「強くあれ」とは、どんな強さでしょうか?

 それは、自分の考えや自分の力だけでがんばる強さではありません。自分のしたいことをするため、したくないことはしないための強さではありません。からだが強くなり健康になることは大切です。しかし、自分の強さを誰かを傷つけるために使うとしたら、神様に逆らうことです。「強くあれ」とは、神様を神様とするための強さです。私たちの生まれながらの性質は、自分を中心とし、自分を神様としがちです。そんな私たちがイエス様を救い主と受け入れると、イエス様の力によって神様を神様とする生活ができるように神様の子どもとして強くされていくのです。はじめはだれでも神様の子どもとして弱いですが、日曜日にともに礼拝し、聖餐を受け、毎日『聖書』を読み、お祈りし、イエス様を信じる人と親しくなることにとって、神様を神様とするための強さが養われていくのです。

2.神の言う通りにしたのはなぜか?(ヨシュア記 3章7~17節)

 いよいよイスラエルの民は、ヨルダン川を渡って、約束の地カナンに入ろうとしています。川は水がいっぱいでした。橋はどこにもありません。さて、どのようにして渡りましょうか?すると、神様のことばがありました。7~8節を読みましょう。言われていることは何か?まず、今日からイスラエルの人々の前でヨシュアを大いなる者とするのは、神様がヨシュアとともにいることを人々が知るためだと言われました。これから起きることも、神様がヨシュアと共にいることを知るためだということでしょう。次に、民の先頭に立つ「契約の箱」をかつぐ祭司たちに、「ヨルダン川の水ぎわに来たら、川の中に立ち続けよ」と命じることでした。ヨシュアはどうしたでしょうか。この神様のことば通りにすることも、自分の考えで川を渡ろうとすることもできました。ヨシュアは「主のことばを聞きなさい」(9節)と言って、神様のことばの通りにすることを選んだのです。なぜ、ヨシュアは神様の言う通りにしたのでしょうか?自分が神様ではないことを認め、自分は神様に造られた者であることをわきまえ、神様を神様として信頼したからです。神様を信じると言うなら、神様のことばである『聖書』を読み、礼拝をささげるなど、態度に出るはずです。

 神様の言う通りにしたら、どうなったでしょうか?14節を読みましょう。「契約の箱」とは、モーセが神様からいただいた十戒が書かれた石の板、マナの入ったつぼ(出エジプト16:33,34)、芽を出したアロンの杖(民数記17:10)が入っていて、神様が共におられるしるしの箱でした。その箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の水ぎわに来た時、何が起きたか?15~17節を読みましょう。神様のことばはその通りとなり、川の水は30kmほど上流で立ち止まり、人々はヨルダン川の乾いた所をみな渡り、約束の地に入れたのでした。

 約束の地に入れた人々と、天国に入れる人々とは似ているのではないでしょうか。イエス様を信じ受け入れる人しか「天国」には入れないと言われると、神様は心がせまいと思うでしょうか。イスラエルの人々がヨルダン川を渡りカナンの地に入れたのは、神様を神様として信頼したヨシュアに従ったからでした。「天国」とは神様が神様として支配する所です。神様はすべての人が「天国」に入ることを願っており、「天国」は神様を神様とする人が喜んで過ごせる場所です。私たちはもともと神様と一緒に過ごすのを喜べるように造られましたが、アダムとエバが神様に背いて以来、生まれながらに神様を神様とする人は誰もいません。しかし、神様のひとり子イエス様がこの世界に来られ、神様を神様としない私たちの身代わりに十字架で死んでくださり、3日目に復活されました。このイエス様を信じ受け入れる人が神様の子どもとされ、神様を神様とする人とされるので「天国」で過ごせるのです。もし、イエス様を信じないで神様を神様としない人がそのままで「天国」に行っても窮屈なだけかもしれませんし、「天国」から自分で自分を遠ざけているのです。神様はご自分と私たちが喜んで一緒に過ごせる「天国」にすべての人を招いておられます。

Ⅲ.むすび

 ヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ」(1:9)と言われた神様は、「主があなたとともにおられるのだから」(1:9)と今の私たちにも言われます。それは、何のための強さでしょうか?自分のための強さではありません。神様を神様とする強さです。神様の子どもとして、神様に信頼して従うための強さです。この強さを神様からいただくために、今週、週報にのっている『聖書』の箇所を読み、お祈りしましょう。神様を神様とするとき、みことばが約束している神様の働きを経験することができるのです。

(記:牧師 小暮智久)