2020年12月6日 礼拝説教「孤独と交わり」

聖書: ルカの福音書 1章39~56節

Ⅰ.はじめに

 12月に入り、いよいよクリスマスや年末年始が近づいてきます。いつも以上に、ふと孤独を感じることがあるかもしれません。私たちは、孤独を感じる時、それを何でうめようとし、いやそうとするのでしょうか?
 アドヴェント(待降節)の第2週を迎えました。先ほどのみことばから、孤独とその対処法について、ともにお聴きしましょう。

Ⅱ.みことば

1.マリアの心境と行き先(ルカの福音書 1章39~45節)

 「それから、マリアは立って」(39節)と書かれています。マリアとは今から約2000年前に西アジアのガリラヤという地方にほんとうにいた女性です。この時の年齢は10代、12~16歳ぐらいではないかと言われています。マリアがこの時、立って、出かけたのはなぜでしょうか?そのきっかけは、御使いが彼女のところに来たことでした(26節)。天使が自分のところに来るというだけでも驚きですが、御使いが神様から託されてマリアに伝えたことがさらに驚きだったのです。28~31節を読みましょう。それは、マリアがヨセフという人と婚約中でしたがまだ結婚前なのに、身ごもって男の子を産むという知らせでした。しかも、イエスと名づけられるその子は「いと高き方の子」、ダビデの王位を与えられ、それは永遠に続くというのです(32~33節)。マリアは驚きや戸惑い、疑問を隠さず話し、御使いが「神にとって不可能なことは何もありません」(37節)と答えたのをそのまま受け止め、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(38節)と答えました。

 しかし、不安はまだ、あったのではないでしょうか。それを誰かに話せるでしょうか。両親にも、いたとすれば兄弟や姉妹にも、あるいは親しい友だちにも、話してわかってもらえるでしょうか。婚約者のヨセフに言ったらどうなるでしょうか。10代のマリアの若いその心は、孤独を感じつつ、思い悩んだのではないでしょうか。「私たちの苦しみの多くは、つらい状況だけからくるのではありません。苦しみのただ中で感じる孤立感からくるものです」とカトリックの司祭ヘンリ・ナウエンは述べました。「中毒症状のひどい苦しみの中にある人々にとって、それがアルコールであれ薬物であれ、性的なことや食物であれ、他の人が自分の苦しみを負ってくれ、本当に聞いてもらえたと実感できたときに、真の解放の一歩を踏み出すのです。自分の苦しみを他の人と分かち合うことが癒しの最初の一歩となるという真理は、さまざまな『十二ステップ』のプログラムによって反論の余地なく実証されています」と言うナウエンの指摘は意味深いと思います(『いま、ここに生きる』,p.54)。

 マリアが南の方へかなり遠くてもユダの町に「急いで行った」(39節)のはなぜか?それは御使いがこう言ったからではないでしょうか。36節を見ましょう。普通はあり得ないことを、自分と同じように経験している人ならばわかってもらえるのではないかとマリアは思い、エリサベツのもとへ急いだのです。孤独と不安を抱えて、必死な思いでやっとその家に着きます。どうなったか?40~45節を読みましょう。エリサベツは、マリアも授かる子も神様に祝福されていること、自分の喜びが胎内の子どもにも伝わり子どもも喜んだこと、主のみことばを信じた人の幸いを、マリアに伝えたのでした。「あいさつ」ということばが3度繰り返されるのが印象的です(40,41,44節)。マリアのあいさつでエリサベツに伝わったもの、そこから沸き上がったエリサベツの歓迎と喜びの気持ち。孤独の中にいたマリアは、「ああ、この人ならわかってもらえる」と感じたのではないでしょうか。

2.マリアの讃美と支えたもの(ルカの福音書 1章46~56節)

 マリアはこのあと、どうしたか?「マリアは言った」(46節)とありますように言葉を残しています。「言葉」を「言」の「葉」と書くのは意味深いのではないでしょうか。私たちが使う「言葉」は、自分の心に満ちているものが外にあらわれたものではないでしょうか。マリアの言葉はどうでしょうか?46~47節を見ましょう。彼女の言葉はまっすぐに神様に向かっています。これは「讃美」であり、「神をたたえます」という「宣言」でもあります。48節~49節前半はその理由でしょう。今回の思いがけないことは、神様が自分に目を留めてくださったからなのだと受け止めています。これは主が自分にしてくださったことの「証言」「証し」でもあります。その主がどんなお方であるか、その力強いわざは、これまでどのようにあらわされてきたかが49節後半~53節で語られ、これは「旧約聖書」の出来事をなぞる言葉でもあります。結びの部分(54~55節)で繰り返されるのは「忘れずに」という言葉です。神様は約束を忘れずに、必ず実現されるお方です。しかも、マリアは「アブラハムとその子孫」(55節)、神の民イスラエルの一人として、決して孤独ではなく、神の民の交わりに支えられていることを意識して、この部分を語ったのではないでしょうか。

 マリアは3か月ほど、このエリサベツのもとに留まります。いろいろなことを彼女と話したでしょう。自分の戸惑いや不安、恐れや孤独感、しかし、それだけでなく、これからへの期待、準備などについてもお互いに話し合ったのではないでしょうか。そのような交わりに支えられて、広く言えばイスラエルの民という神の民の交わりに支えられて、このマリアの讃美や証しの言葉は語られたのではないでしょうか。エリサベツもまた、母になろうとしている若いマリアと話す中で、神様への信頼を深められたのではないでしょうか。

 ナウエンの次の言葉が深く心に響きます。「この『マリアのエリサベツ訪問』の物語は、友情とコミュニティの意味を教えてくれます。自分を肯定し、深め、強めてくれる人々によるコミュニティで生きることなしに、神の恵みはどうやって生活のすみずみまで行き渡るでしょうか。そうした新しい命を、単独で生きることはできません」(『ナウエンと読む福音書』,p.29)。コミュニティとは今の私たちにとっては「教会」でしょう。イエス様を信じてクリスチャンとなった新しい命を、単独で生きることはできず、「教会」という交わりの中で生きることができるのです。また、こうも言われています。「あなたの成長は、ほかの人の中で成長することなしにありえません。あなたは、体の部分だからです。あなたが変わるとき、体全体が変わります。ですから、自分が属している、より大きな共同体と深くつながっていることは、非常に大事なことです」(『ナウエンと読む福音書』,p.28)。

Ⅲ.むすび   

 私たちはどんな時に孤独を感じるでしょうか?教会の中で、自分にとってエリサベツのような、年齢に関係なく話しやすそうな人がいるでしょうか?私も孤独を感じるときがあり、友だちを作るのは苦手だなと思います。そんな私にも今、月に一度他の教会の牧師の3人の友と定期的に、一人の友とは不定期に話す時が与えられ、感謝しています。まず、同じ教会で話せる人ができるように祈りましょう。マリアのようにあいさつしましょう。そして、話しかけ、思いを分かち合い、親しくされていきましょう。

(記:牧師 小暮智久)