2020年11月29日 礼拝説教「主は生きておられる」

聖書: エレミヤ書 23章 5~8節

Ⅰ.はじめに

 今日と明日で11月が終わります。今年最後の1ヶ月を、私たちはどんな思いで迎えるでしょうか?新型コロナウイルスの感染が拡大しており、落ち着かない気持ち、不安な思いかもしれません。ただ、いろいろな数字に振り回されずに冷静に、感染に気をつけながらいつも通り過ごすにはどうしたらよいか、神様からの知恵をいただきたいと思います。

 全世界のキリスト教会の暦では、先週が1年最後の「主の日」であり、今日から始まる「アドヴェント(待降節)」が新しい1年の始まりです。「アドヴェント」とは元々、「来臨」「やって来る」という意味です。「冒険」を意味する「アドヴェンチャー」は関連のある言葉で、語源は「起ころうとしていること」です。起ころうとしていることへの待望。それが「冒険」や「アドヴェント」に関わる心でしょう。12月24日までの「アドヴェント」の期間、私たちは2つの「来臨」を待ち望みます。一つは救い主イエス様の誕生、「降誕」と言われる、そのお祝いの日を待つのです。もう一つはイエス様が再び来られること、「再臨」と言われる、その日を待つのです。今日は、救い主が来られることを前もって予告した『聖書』のことばから、その約束の内容と今の私たちとのつながりをお聴きしましょう。

Ⅱ.みことば

1.神の国の約束(エレミヤ書 23章5~6節)

 今日、お聴きした「エレミヤ書」は、西アジアのユダという国でエレミヤという預言者が神様から預かって人々に伝えたことばです。彼が活動したのは紀元前627~583年頃と言われます。にせ預言者がはびこり「平安がないのに『平安だ、平安だ』」(8:11)と語った時代に、都エルサレムの破滅とユダの国が滅亡して民がバビロンに捕らえ移されることを、エレミヤは予告しました。そのためにエレミヤは迫害され殺されそうになりますが、神様からのことばをまっすぐに語るのをやめなかった真実な預言者です。祖国の滅亡を語らざるを得ない困難な働きを44年続けた彼の心にあったものは、祖国への真実な愛ではないでしょうか。祖国の滅びを悲しみつつ語ったエレミヤは「涙の預言者」とも呼ばれます。

 しかし、エレミヤは祖国の滅亡だけを告げたのではありません。そのかなたのバビロンからの帰郷と国の再建、そして、完全な王、救い主が来られるという神様の約束をも語ったのです。救い主誕生の預言というとイザヤ書(7,9,11章など)やミカ書(5章など)を思い浮かべがちですが、エレミヤも救い主誕生の約束を告げたのでした。そのことを今回、浅野順一という旧約聖書学者の説教に触れ、教えられました。エレミヤの預言に聴きましょう。

 「見よ、その時代が来る」(5節)。これから語られる事柄の重大さを強調する表現のようです。そのとき何が起こるのか?「そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす」(5節)。「わたし」とは神様、神様はダビデの子孫に一人の特別なお方を起こすという約束です。「若枝」とはイザヤ11:1では「根株から新芽」「根から若枝」と言われ、切り株の根元から枝が生えるイメージです。「孫」に「生える」と書く「ひこばえ」という表現があり、「新共同訳」の黙示録22:16などは「若枝」を「ひこばえ」と訳しています。その「若枝」はどうなるか?「彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う」(5節)。このお方は王として、国を確立するのです。その国とは「公正と義」、神のみこころが行われる「神の国」と言えるのではないでしょうか。この「王」のもとで人々は「救い」を受け「安らかに住む」(6節)。なぜなら、この王は「主は私たちの義」(6節)と呼ばれるからです。この「王」の到来の約束が、キリスト(救い主)の誕生の約束です。この救い主に信頼する人は、「主は私たちの義」と告白して、その国、「神の国」の国民とされます。この約600年後に生まれたイエス様こそ、この「王」です。イエス様は「神の国」の到来を告げ、私たちの罪のために十字架で死なれ、3日目に復活し、イエス様を救い主と信じる人が「神の国」の国民とされる手続きを準備万端整えてくださいました。今や誰でもイエス様を信じるなら「神の国」の国民とされます。「神の国」の国土はイエス様を信じた人の心であり、それは広がりつつあります。「神の国」は神の愛と義が支配する所、そこに神に背く罪は存在できません。イエス様が再び来られる時、「神の国」は完全な姿で現れ、私たちはそこに住みます。そこは完全な意味で神様と私たちが共に生活する所、今この地上での信仰生活、教会の方々と過ごす教会生活はそのリハーサルと言えるのではないでしょうか。

2.「主は生きておられる」という告白(エレミヤ書 23章7~8節)

 ダビデ王の子孫に特別が王、キリスト(救い主)が生まれたとき、その時代の人々は神様についてどのように言うのでしょうか?7~8節を読みましょう。そのとき、人々は神様について「出エジプトという救いのわざを行われた主は生きておられる」とは言わず、「イスラエルの民の子孫たちを、世界に散らされた各地から祖国に帰らせてくださった主は生きておられる」と信仰を告白するようになると、ここに予告されています。これは、人々はバビロンに捕囚となるけれども、また祖国に帰って来られるという約束でもあります。しかも、それは偶然の出来事ではなく、主なる神が生きておられ、働かれたので起きたことなのだと、人々が信仰を告白するようになるという約束です。エレミヤにとってこれは、希望だったのではないでしょうか。さらには、バビロン捕囚だけでなく、西暦70年のエルサレム滅亡の時にもイスラエル民族は全世界に散らされましたが、その人々も祖国に戻って主を告白するということも含まれているのではないでしょうか。このことはあり得ないと考えられてきましたが、様々な問題はありつつもイスラエルは1948年に国として再建されました。これも、このみことばの約束の実現と言えるでしょう。

 今の私たちにとっての信仰の告白はどのようなものでしょうか?説教の直後の「使徒信条」は4世紀頃までに今のかたちとなった信仰の告白です。「我は…を信ず」というかたちで「父なる神」「御子なる神」「聖霊なる神」の三位一体の神への信仰が告白されます。しかし、それだけでなく、日常生活で「主は生きておられる」と感じた出来事を言葉にすれば、それも信仰の告白となるのではないでしょうか。先日教会が日曜日に駐車場として借りていた場所が使えなくなった時、私はいつか情報だけでももらえればと80代の町会長さんに相談したのです。すると、「今から一緒に探しましょう」とこの近辺を歩き、何軒かの家には「教会さんが困っておられて」と声をかけてくださったのです。町の人々に愛される教会にと願ってきましたから、「主は生きておられる」と感じた嬉しい出来事でした。

Ⅲ.むすび

 イエス様を信じ、「神の国」の国民とされた人は誰でも、「自分を罪と滅びから救ってくださった主は生きておられる」と告白できます。日常の生活でのお祈りに答えられたことなど、「主は生きておられる」と思えた経験を、礼拝に集まった時、礼拝後のわずかな時間に語り合えるなら、それも天国での生活のリハーサルとなりましょう。

(記:牧師 小暮智久)