2020年10月4日 礼拝説教「この主を見上げて」

聖書: イザヤ書 43章16~21節

Ⅰ.はじめに

 10月に入り、最初の主の日を迎えました。4月から始まった今年度の半分が過ぎ、後半が始まったことになります。今年度の前半は、新型コロナウイルスの感染拡大や政府による緊急事態宣言にどう対応するかなど、教会にとっても経験したことのない日々だったと思います。今年度の後半はどのような日々になるのでしょうか?

 私たちの教会に与えられている今年度のテーマのみことばはこれです。「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」(イザヤ43:19)。毎月、第1の「主の日」には、このみことばを共にお聴きしてきました。主は、同じみことばの異なった面に光を当てて新しく気づかせてくださいます。今回、私は特に、19節以降に「わたし」と言われる神様ご自身の存在が、何度も繰り返されていることに、新たに気がつきました。ここで何度も「わたし」と言われているお方は、どんなお方なのでしょうか?ともに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.海の中に道を設けたお方(イザヤ書 43章16~18節)

 19節で「わたしは新しいことを行う」と言われるお方は、16節では海の中に道を設けたお方と言われています。16~17節を読みましょう。海の中に道をつくるということは、ふつうできないことです。これは、『聖書』のどの場面のことをさしているのでしょうか?それは、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいたところから、モーセという指導者によって救い出されたときのことです。エジプトの王は、イスラエルの民を解放すると一度は決めましたが、実際に民がエジプトを出て行くと心変わりし、軍隊を出動させ、イスラエルの民を連れ戻そうとしたのでした。エジプトの軍勢は、イスラエルの民が海の近くで宿営しているところに追いつこうとしていました。前は海、うしろはエジプト軍が迫って来る中で、イスラエルの民は恐れます。そのとき、主は何をなさったか?出エジプト記14:15~18を読みましょう。ここにも「わたし」ということばが何度も出てくるのが印象的です。実際に起きたことは出エジプト記14:21~31に書かれています。主は海の中に道を設け、そこをイスラエルの民が歩いて進めるようにしてくださいました。こうして、イスラエルの民は、エジプトの軍勢から救われ、約束の地カナンへの旅を続けることができたのでした。

 「わたしは新しいことを行う」と言われるお方は、海の中に道を設けるという、人間には決してできないこともおできになるお方です。そして、そのような奇跡を見たその時は、人々は神様の力を信じたのでした。しかし、その後、荒野を通り約束の地へ向かう旅の日々に、食べ物や飲み水がないときなどには、神様ご自身を信頼できなかったのでした。「出エジプト」の時の奇跡を見たことも、神様への信仰には結びつかなかったのです。

 今の私たちにとっても、困難に囲まれた時、海の中に道が設けられるような奇跡を経験したら、神様を信じることができるでしょうか。信仰とは、神様とのつながりです。奇跡を見た時の神様とのつながりは一時的なものになりがちであり、やはり自分中心のつながりになりがちではないでしょうか。さらに深い神様とのつながりのためには、私たちの心そのものが新しくされる必要があるのではないでしょうか。

2.新しいことを行うお方(イザヤ書 43章19~21節)

 かつて、海の中に道を設けたお方が「見よ、わたしは新しいことを行う」(19節)と言われます。「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな」(18節)と言われるほどの「新しいこと」です。海の中に道を設けるという「出エジプト」の奇跡を行なったお方が、それとは全く違う、これまでになかった「新しいこと」を行うと言われるのです。それは、どのようなことでしょうか?

 ここに「わたし」ということばが繰り返されます。新しいことを行うのは「わたし」(19節)。荒野に道を、荒れ地に川を設けるのは「わたし」(19節)。野の獣、ジャッカルやだちょうにもあがめられるのは「わたし」(20節)。荒野に水を、荒れ地に川を流れさせるのは「わたし」(20節)。ご自分の民に飲ませるのは「わたし」(20節)。この民を形作ったのは「わたし」(21節)。というふうに、「わたし」が繰り返されるのはなぜか。それは、この方が行なう「新しいこと」は単なる奇跡というだけでなく、「わたし」と言われる神様と私たちひとりひとりとの関係が新しくなるということが強調されているからではないでしょうか。しかも、出来事だけでなく、それを行う「わたし」という存在に心を向け、信頼せよということが強調されているのではないでしょうか。

 たしかに、ここで言われている「新しいこと」の内容は「荒野に道を、荒れ地に川を」(19節)と言われているように、イスラエルの民がこれからバビロニア帝国に捕虜となり、そこから解放されてふるさとへ帰って行くときの様子です。「出エジプト」にも似た救いの奇跡とも言えます。

 しかし、それだけではありません。人々が「わたしの民」と呼ばれ、神様の関係が心から信頼し従う関係とされ、「わたしの栄誉」と言われる神様の栄誉を人々が宣べ伝えていくというような、神様と人々との関係がそのようにされると言われています。それは、「旧約聖書」で「新しい契約」と予告されている神様と人々との契約のことが含まれていると言えるのではないでしょうか。エレミヤ書31:31~34を読みましょう。神様が人々の心に律法を書き記してくださるという新しい契約です。律法の中心は、私たちがすべてを尽くして神様を愛し、身近な人を自分と同じように愛することです。それを行えるような心が与えられ、主は私たちの神となり、私たちは神の民とされ、主を知るようになるという「新しい契約」が予告されています。この「新しい契約」はどうなったでしょうか?

 それは、今から約2000年前、イエス様がこの世界に来られ、私たちの罪のために十字架にかかり、いのちをささげて、死んでくださり、3日目に復活されたことによって、新しい契約の準備はすべて整いました。あとは、イエス様を自分の救い主として信じ受け入れるなら、この「新しい契約」は、神様と私たちとの間で結ばれ、私たちは神の民とされ、神様に心から信頼し喜んで従う者とされていくのです。今日、このあと聖餐を受けます。イエス様が十字架につけられる前の晩に弟子たちに、行い続けるように命じられたのが聖餐です。聖餐を定められる際に、イエス様はこう言われました。ルカの福音書22章19,20節を読みましょう。イエス様がご自身のからだと血とによって成し遂げてくださった神様と私たちとの和解、関係の回復の恵みをこのあと味わいましょう。

Ⅲ.むすび   

 私たちのために救い主を送り、このイエス様によって私たちの心を新しくしてくださったこの主を見上げましょう。「見よ、わたしは新しいことを行う」と言われる、この方を見上げ、この方の心に合わせて歩んでいきましょう。

(記:牧師 小暮智久)