2020年10月11日 礼拝説教「つながりの回復」

聖書: ルカの福音書 19章 1~10節

Ⅰ.はじめに

 私たちは人との関係で悩み、傷つくことがあります。それでも私たちは、自分のことをわかってくれる人との親しいつながりを求めているのではないでしょうか。

Ⅱ.みことば

1.町を通るお方(ルカの福音書 19章1~4節)

 今から約2000年前の西アジアのエリコという町をイエスというお方が通られます。町の人々とのつながりをもち、親しくなろうと、この町を歩いて通られたのです。このイエスというお方は今も、私たちひとりひとりとつながりをもとうとしておられます。

 この町にザアカイという人がいて、「イエスがどんな方かを見ようとした」(3節)のです。なぜでしょうか。イエスについてのうわさを聞いて興味をもち、できれば、このお方とつながりをもちたいと思ったのかもしれません。彼は何かの理由で「取税人」(2節)になり、ローマというほかの国に治める税金をエリコの町の人から集めていました。町の人からはあまりよく思われず、寂しかったかもしれません。町を通って行くイエスを見たい。けれど見えない。背が低くて見えなかったのは確かです。「群衆のために」(3節)というのは町の人々にきらわれていてさえぎられたからかもしれません。それで彼は木に登る(19:4)。なぜ、木に登ったのか。「イエスがどんな方かを見ようとして」(3節)、「イエスを見ようとして」(4節)と繰り返されています。ザアカイはイエス様を見ようとした。しかし、自分は隠れていたい。イエス様に嫌われるかもしれないと思ったからかもしれません。いちじく桑の葉は大きく、自分の姿を隠すにはちょうどよかったのではないでしょうか。ザアカイは目立たないように、木の葉に隠れて、イエスというお方をそっと見ようとしたのです。

2.名前を呼ぶお方(ルカの福音書 19章5~8節)

 イエスというお方は、ひとりの人を、その人として名前を呼びます。友だちになろうとして名を呼びます。不思議ですが、初対面なのに名前を知っておられます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」(5節)。イエス様は木の葉に隠れている彼を、彼の思いを見過ごしませんでした。「そこの人」とか「取税人」とか呼ばず、名前を呼びました。その人の外見とか年齢とか立場とかではなく、その人をその人として、親しくなろうと、名前を呼んでくださるのがイエスというお方です。

 イエス様は今日も、私たちひとりひとりに関心を持ち、外見とか立場ではなく、その人をその人として名前を呼び、その人と親しく友だちになろうと、声をかけてくださいます。外からはわからないその人の苦労や悲しみやつらさ、不安やさびしさをだれよりもよくわかってくださり、「その重荷を、疲れを、共に背負うよ」と近づいてくださいます。

 名前を呼ばれてザアカイはどうしたでしょうか。「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(6節)とあります。名前を呼ばれたことも、自分の家に今日イエスが泊まることも予想外で、彼はびっくりしたと思いますが、木から急いでおりてきた様子に彼の喜びが見えます。このイエスとつながりをもとうとせず、ただ見ていた近くの人々は「あの人は罪人のところに行って客となった」(19:7)と、イエス様への文句を言いますが、ザアカイの喜びはさらにあふれて広がっていきます。8節を読みましょう。「主よ」(8節)という言葉に込められた意味は何でしょうか。「今まで自分を主として、自分を中心に生きてきましたが、これからはあなたを人生の主とし、あなたに導かれて生きていきます」という彼の生き方の変化がここにあらわれています。イエス様を迎え入れ、イエス様とのつながりが与えられると、人は変えられます。ザアカイの場合、イエス様に言われた訳ではないのに、自ら進んで財産の半分を貧しい人に施し、脅し取ったものは人に返すという生き方に変えられました。イエス様とのつながりが、人々とのつながりの変化をもたらしたのでした。

3.救うお方(ルカの福音書 19章9~10節)

 イエス様はザアカイに宣言します。「今日、救いがこの家に来ました」(9節)。救いとは、その人が神様とつながったということです。ザアカイが「財産を貧しい人に施す」とか「脅し取った物を人に返す」と言ったから、救いが来たと言われたのではありません。ザアカイがイエス様を迎え入れ、イエス様とつながったので、救いが来たと言われたのです。財産を施すことや脅し取った物を返すことは、イエス様とつながって救われた結果としてザアカイの生き方に起きた変化であり、救われたことへの感謝のあらわれなのです。

 イエスというお方は、何のためにこの世に来られたのでしょうか?「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」(10節)と言われました。「人の子」とはご自分のこと、イエス様は失われた人を捜して救うために来たと言われました。イエス様は救うお方です。「失われた者」とは何でしょうか。それは、もとの家、もとの国から迷い出てしまった人のことです。『聖書』は私たち人間がもともと、神様によって造られたと語ります。私たちはこの神様との「つながり」の中で、神様と一緒に過ごすように造られたのです。そこに私たちが神様と共に過ごす家、神様と共に過ごす国、私たちの居場所がありました。しかし、この神様に無関心となり自分の考えだけで過ごすようになり、私たちは神様と共に過ごす家、神様の国から迷い出て、神様との「つながり」を捨て、失ってしまいました。それでも神様は私たちを見捨てず、ひとり子イエス様を送ってくださいました。イエス様は、私たちが捨て、失った神様との「つながり」を回復するために、この地上にきてくださいました。神様とのつながりを捨て神様に背いた私たちへの神様の怒りを、イエス様は約2000年前の十字架による死刑において、私たちの身代わりに受けてくださったのです。教会の「十字架」は、イエス様が私たちを救うお方であることを、今もあらわしています。

Ⅲ.むすび

 先週、加古川教会の前の牧師である高野鷹信先生の説教を読み、ザアカイとイエス様との出会いには後日談があると知りました。ザアカイは家族での夕食のあと、いつも一人で出て行きます。ある日、孫たちは「おじいちゃんは毎日、どこに行くんだろう?」とザアカイのあとをついて行きました。するとザアカイは、かつてイエス様に会ったいちじく桑の木の下でじっと座っていたそうです。ザアカイは初めの愛の起こった所、初めの恵みを感じた木の下で、今の自分を顧みて、感謝の日々を送ったという伝説があるのだそうです。

 イエス様は今、ひとりひとりの名前を呼び、「今日、あなたの家に泊まることにしている」と、私たちと親しいつながりをもちたいと願っています。ザアカイのように、今日イエス様を迎え入れるとき、神様とのつながりが回復され、もともと神様に造られた私たちの、もともとの家、もともとの国、神様と共に過ごす生活が今日から始まります。あなたとのつながりを回復しようと願っている神様に、心をひらきましょう。

(記:牧師 小暮智久)