2023年11月12日 礼拝説教 「からだの部分として」

聖書:コリント人への手紙 第1 12章26~27節

Ⅰ.はじめに

 「教会」とは何でしょうか?十字架を見て「あ、あそこに教会がある」と言うのはもちろんまちがいではありません。しかし、正確には「あそこに教会堂がある」と言う方がよいのではないでしょうか。なぜなら、『聖書』が私たちに告げる「教会」とは建物のことではなく、イエス様を信じた人々の集まりだからです。人々の集まりと言っても、ただなんとなく集まっているというのではなく、神様を礼拝するために集まる、ひとりひとりがお互いに関心をもち気遣いながら心を配り合いつつ集まる、イエス様こそキリスト(救い主)だと人々に示し伝えるために集まるなど、はっきりとした意味と目的と使命をもった共同体であり、イエス様を中心とした仲間です。教会のひとりひとりはそれぞれ違っていて当たり前ですが、大切な共通点があります。それは、イエス様を信じて永遠のいのちを与えられたという共通点です。永遠のいのちとは、神様とのつながりや交わりですから、教会の私たちお互いは、神様とのつながりや交わりという永遠のいのちを共有し、分かち合っている存在なのです。今年度の私たちの教会の総主題は「キリストのからだである教会」です。キリストの「教会」に加えられた私たちそれぞれの部分と全体とはどんな関係にあるのか、ともにみことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.部分と全体のつながり(コリント人への手紙 第1  12章26節)

 26節をお読みします。これは、私たちのからだの全体と部分との関係を述べています。同時に、「教会」に属した私たちひとりひとりと全体との関係がどんな性質かを述べています。これは、同じ教会に属したのだから、他の人の苦しみを共有しよう、他の人の喜びを共有しようという勧めや命令ではないように思います。むしろ、「キリストのからだ」と言われる「教会」の性質とはそういうものだと言っているのではないでしょうか。

 たとえば、小指の先にトゲが刺さったとします。痛いのは小指ですが、痛みでからだ全体が不快に感じ、からだ全体で小指が気になるのではないでしょうか。まさに「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ」という性質を、人間のからだはもっています。そして、からだが感じている小指の先の痛みを取りのぞくために、からだの全体が協力する。まず、目が場所を特定し、よく見えなければ手が老眼鏡をもち、さらにとげぬきをさがし、集中して、そのとげが抜けるように、からだの全体が調和して働き、協力するのです。これは、命じられたことではなく、そうするようになっているというからだの全体と部分とのつながりであり、その関係の性質と言えるのではないでしょうか。それと同じように、「教会」のひとりの苦しみは、その人だけの苦しみではなく、全体の苦しみです。つながっているのです。「教会」のひとりが尊ばれ、評価されても、その人が自慢したり誇ったりするのでなく、教会全体の誇りとなるのです。

2.キリストのからだと部分(コリント人への手紙 第1  12章27節)

 27節をお読みします。「あなたがたはキリストのからだ」と言われています。私たちひとりひとりは、イエス様が自分のために十字架で死なれ、復活された救い主だと信じ、そのしるしとして洗礼を受けたとき、「キリストのからだ」とされたのです。ということは、イエス様をキリスト(救い主)と信じることは、ただ自分の内面で何を信じるかという個人的なことではなく、「キリストのからだ」である教会に加えられたという団体的な、共同体的な出来事なのです。

 「キリストのからだ」とは何でしょうか?キリストが主であられ、かしらであるその「からだ」であり、それはキリストのものです。その一部分に自分が加えられたということは、自分もキリストのものとされた、キリストの所有とされたということです。イエス様を信じる以前は、自分がどう思うかが最優先でしたが、「キリストのからだ」に加えられてからはキリストがどう思うかが最優先となる。そうでなければ、キリストも自分も痛みを覚える、そんないのちのつながりがキリストと自分との間にできたということです。

 「一人ひとりはその部分です」とあります。「教会」に属する私たちは、「キリストのからだ」の部分として、お互いにそれぞれが大きく違っています。各自の常識やマナーも違えば、育った環境や身につけてきた考え方も全然違うでしょう。その違いは、時に驚きとなり、つまずきにもなります。しかし、その違いが実は、お互いを補い合い、お互いを組み合わせていくのです。お互いに助け合うことで共に成長し、バラバラに見えているようで美しく調和していくのが「キリストのからだ」の性質と言えるのではないでしょうか。

 この「キリストのからだ」、すなわち、キリストの教会は、その全体をもって、キリストを人々にあらわし、示しています。「教会」というものの存在が、キリストを証言する証しです。どんな証言か?それは、どんな人でも、すべての人が神様に招かれ、キリストを信じれば救われ、永遠のいのちを与えられ、神様とのつながりを回復されるのだという証言です。これほどの違いを持った多様な人が加えられている「キリストのからだ」には、さらに様々な違いを持った人を含め、ありとあらゆる人々が加えられていくという証言です。

Ⅲ.むすび

 今日はこのあと聖餐をいただきます。イエス様のからだと血である聖餐に養われ、キリストのからだの部分として今週も歩ませていただき、今週接する身近な人々にキリストを指し示すお互いとされましょう。

(記:牧師 小暮智久)