2023年8月6日 礼拝説教 「終わりから見る教会生活」

聖書: エペソ人への手紙 5章26~27節

Ⅰ.はじめに

 今日は日本にとって忘れられない日です。78年前の今日、原爆が広島に落とされました。7年前に広島の原爆資料館に行きました。やはり現地に行ってみないとわからないことがあると実感しました。来月後半には「日本伝道会議」が岐阜県で開かれます(1050名)。これまで6回開かれ、共にみことばに聴き、伝道について語り合ってきました。私は第3回(1991年)の栃木県の那須塩原での会議が初めてで、それ以来、第4回(2000年)の沖縄、第5回(2009年)の北海道の札幌、第6回(2016年)の神戸での会議に参加しました。沖縄も札幌も現地に行かないとわからないことがあると実感しました。時間とお金がもったいないという批判もあるでしょうが、まず参加していただきたいと思います。オンラインでも参加できますので、ぜひどうぞ。今回のテーマは「『おわり』から『はじめる』宣教協力」。「おわり」とは次の3つ、①もうあとがない「今」という「おわり」、②世の終わり、ゴールという「おわり」、③開催地の古い呼び名である「おわり(尾張)」、転じて各教会の現場としての「おわり」です。「おわり」を考え、各教会や各教団が互いに伝道の協力を「はじめる」ことができるよう、ぜひお祈りください。今日は私たちの教会の今年度のテーマ「キリストのからだである教会」を「世の終わり」「ゴール」から考えてみたいのです。私たちお互いに、人生の終わりがいつかはわかりませんが、自分の終わりの時を考えると、「いま」を大切に真剣に生きようとするのではないでしょうか。「世の終わり」から教会を考えると、教会生活の今はどのように見えてくるでしょうか?みことばに共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.教会生活の始まり(スタート)(エペソ人への手紙 5章26節)

 さきほどは讃美歌191番「いともとうとき」と「教会」についての讃美を歌い、そのあとで讃美歌429番「あいの御神よ」と「結婚」についての讃美を共に歌いました。同じメロディーなのが興味深いです。『聖書』は「結婚生活」を「キリストと教会との関係」になぞらえています。その一つが「エペソ人への手紙」5章22~33節。神様は妻に、教会がキリストに従うように、夫に従うよう命じ(5:22~24)、夫には、キリストが教会を愛されたように、妻を愛するよう命じます(5:25~30)。その夫への命令で、妻をどのように愛するかが、「教会」の始まり(スタート)と終わり(目指すゴール)になぞらえて語られています。

 教会の始まりとはいつか?それは約2000年前のペンテコステです。イエス様がすべての人のために十字架で死なれ、葬られ、3日目に復活され、40日後に天に昇り、10日後に聖霊である神様が地上にくだられた日です。以前、イエス様を知らないと裏切ったペテロはその日、聖霊に満たされ、イエス様を人々に証ししました。人々が十字架につけ、神が3日目に復活させたイエスこそが、「旧約聖書」で約束されていたキリスト(救い主)なのだと。人々は心を刺され、その日、3000人が洗礼を受けました。これが「教会」の始まりです。キリストの愛が出発点です。26節をお読みします。「キリストがそうされた」とは、キリストが教会を愛し、ご自分をささげたことです。夫はそのように妻を愛する。どのような愛か?イエス様を信じる人々を「きよめて」「聖なるもの」とする愛です。イエス様を信じた人は、「みことば」と「水の洗い」、洗礼によって「きよめられ」、新しく神の子どもとして生まれました。このように教会生活が始まりました。「洗礼によるきよめ」は聖化のスタートです。その人は「聖なるもの」、罪の奴隷から神の所有とされました。これは、私たちの努力によらず、神様の恵みのわざです。例えば、殺人罪で死刑を宣告された人でも、イエス様を信じれば洗礼によって「きよめられ」「聖なるもの」とされ、教会に加えられます。なぜか?キリストがその人を愛し、十字架で身代わりに死なれ、復活されたからです。

2.教会生活の終わり(ゴール)(エペソ人への手紙 5章27節)

 イエス様を信じ、神様の子どもとされたばかりの人は、生まれた直後の赤ちゃんのようです。右も左もわからず、本当は両親のような保護者が必要な状態です。こんな文章に出会いました。「教会は信仰を持つまではいろいろなことが赦され、受け入れられ、信仰告白までたくさんの話を聞いてもらえます。洗礼を受けた途端、『おめでとう。あかししましょう。さあ伝道しましょう』と促され奉仕の生活に入っていくのを奨励されます」(松下景子著,『語らいと祈り』,p.78)。ここにギャップがあります。洗礼を受けたばかりの人が戸惑い、疲れ、つまずき、教会から離れてしまう。先ほどの文章は続きます。「洗礼を受け、新しく生まれることができたけれど、今までの古い生き方を体は覚えていて、キリストにある新しい生き方を選び取り、ゆたかな命をいただく生き方が生活に反映していくようにするのは難しいことだと思います」(前掲書,p.79)。するとどうなるか。あきらめや惰性、義務的な喜びのない教会生活の原因は、このあたりにあるのではないでしょうか。

 私たちはお互い、立場的には神様の子どもとされても、内面はまだ整えられておらず、心の傷や未解決の問題が残っているのではないでしょうか。どうすればよいか?誰かに聞いてもらい、聞かせてもらい、内側が整えられるための小グループでの交わりが必要です。「組会」の目的はこれです。現代には「信仰の12ステップ」というものもあります。

 さて、教会の終わり(ゴール)は何か?27節をお読みします。「聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会」、これこそが教会のゴールです。教会はそのスタートにおいても「聖なるもの」、神様のものとされていましたが、それは立場上の「聖なるもの」でした。しかし、イエス様が再び来られ「栄光の教会をご自分の前に立たせる」その時には、教会の一員である自分は、中身も実質的にも「聖なるもの」とされる。これを「栄化」と言います。それはちょうど、妻が最も美しく夫の前に立つ、しみやしわなどが何一つないような状態です。しみやしわとは何か。美容の話ではありません。これはたとえであり、教会のゴール、そこに属する自分が最も美しくされる時のことです。しかも、キリストを指す「ご自分」ということばが2回繰り返され強調されています。すなわち、私たちを美しく整え、傷のない栄光の教会として立たせてくださるのは、キリストご自身なのです。

Ⅲ.むすび

 では、私たちは今をどう過ごすか?どうせ自分は、イエス様の再臨の日には「傷のない栄光の教会」とされるのだからと、何もせずその日を待ちますか?人と接しなければ罪を犯さないからと、孤独に過ごしますか?相手がなければそこに愛はない。愛は相手の最善を願う。夫婦、親子、友情の愛がそうなら、主に愛され、主の子どもとされた私たちは、主が願うような者となりたいと精一杯尽くすのではないでしょうか。その精一杯の、神様と人々に対する純粋な愛を与えられる瞬間が「全き聖化」です。その恵みを祈り求めましょう。しかも、その「全き」とは成長しない完全ではなく、Perfecting Perfection(完全を目指す完全)。その後も「栄化」を待ち望み、成熟を求めるのです。

(記:牧師 小暮智久)