2022年8月21日 礼拝説教 「いったいこの方は?」

聖書: ルカの福音書 8章 22~25節

Ⅰ.はじめに

 先ほど共に歌った讃美歌4番は、日本で最初のプロテスタントの礼拝で歌われた讃美歌だそうです。それは神奈川県浦賀沖に米国からやって来た黒船の上で、イエス様を信じていたペリーが水兵たちを集めてささげた礼拝です。1853年7月10日(日)のことでした。「よろずのくにびと わが主に向かいて こころのかぎりに よろこびたたえよ」という「詩篇」100篇を歌詞とするこの讃美歌を、ペリーは「よろずのくにびと」の一つである日本の人々も、心の限りに神様を喜びたたえる日が来るようにと祈りつつ、歌ったのではないでしょうか。それから169年後の夏、私たちが今ここで、主を喜びたたえていることは決して当たり前ではなく、神様の深い愛とお導きによる恵みだと心から感謝しています。

 この教会の礼拝では、2017年5月から「ルカの福音書」を少しずつ聴き、今日は前回5月22日の続きの所です。ここには先ほどの黒船よりはかなり小さいですが、舟が出てきます。1986年にガリラヤ湖の底で約2000年前のイエス様の時代の舟がほぼ完全な形で発見され、今はゲネサレ記念館という所の水槽で保存されているそうです。舟に乗られたイエス様と弟子たち。どんなことが起き、弟子たちが問われたことは何だったのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.イエス様が一緒でも問題は起きる(ルカの福音書 8章22~23節)

 イエス様と弟子たちが乗っているのは、それほど大きくない舟です。湖を進むうちに、イエス様は眠り始められました(23節)。よほどお疲れだったのでしょうし、この時は波が静かだったのでしょう。このあと、何が起きたか?23節をお読みします。このガリラヤ湖という湖はまわりを山で囲まれていて、突然天気が荒れて、山から強い風が吹きおろして来ることがよくあるそうです。この時の風はかなり強く、湖は波が高くなりました。「彼らは水をかぶって危険になった」(23節)と書いてあるほどの突然の嵐、高い波、舟には水が入って来て、小さな舟はひっくり返り、沈んでしまう危険な状態になったのです。

 弟子たちにしてみれば、イエス様が一緒なら何も問題は起きないだろうと安心していたかもしれません。ところが、嵐が起きる。私たちも、イエス様を信じているなら、何も問題や困ったことは起きないと考えるかもしれません。しかし、この時の弟子たちのように、イエス様が共におられても嵐は起きるのです。私にとって、今年の一連の出来事は予想外でした。3月に父が、5月に母が急に召されました。私は親の死を、もう少し安らかな、看病や介護をしてからのものとイメージしていました。しかし、余りにも急な地上での別れとなりました。さらに今月初め、弟が倒れ、脳内出血で入院しました。左半身のマヒがどのくらいかわかりませんが、少し動けるようになった時に病院内でコロナに感染し、高熱が続きました。熱はその後下がりましたが、どれだけ動けるようになるかはリハビリ次第でしょう。イエス様を信じていても、いろいろな問題が次々と起こるということが私たちにはあるのではないでしょうか。そんな時に、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

2.問題が起きた時、どうするか?(ルカの福音書 8章24~25節)

 向こう岸へと舟を出し、共に乗っているイエス様は眠り始め、突然嵐が起き、舟は水をかぶり、危険になります。弟子の中には以前、このガリラヤ湖で漁師をしており、湖のことをよく知っている人々もいました。そのようなプロたちもうろたえるほどの激しい嵐です。彼らはどうしたか?「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、私たちは死んでしまいます』と言った」(24節前半)。もし、自分がそこにいたらどうするでしょうか。

 イエス様はどうされたか?「イエスは起き上がり、風と荒波をしかりつけられた。すると、静まり、凪になった」(24節後半)。「凪」とは「風がまったくやんで、波がおだやかになること」、風が止まると書いて「凪」という文字になるのは興味深いと思います。風でさえも、イエス様のことばに従い、止まったのです。

 この出来事はそれで終わりませんでした。イエス様は弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」(25節)と問いかけられたのです。イエス様は「あなたがたには信仰がない」とは言われませんでした。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われました。この問いかけはとても大切ではないでしょうか。それは、あなたの信仰は、何に対する信仰なのか、あなたが頼りにしているものは何なのか、という問いではないでしょうか。

 そもそも「湖を向こう岸へ渡ろう」と言われたのは、イエス様でした(22節)。ですから、その途中で何が起きても、弟子たちはイエス様に信頼していればよかった。嵐が起きようとも、イエス様と一緒に眠っていてもよかったのかもしれない。しかし、もしここに「嵐の中、弟子たちはイエスと共に熟睡していた」と書かれていたとしたら、不自然というか、現実離れしていると感じ、自分に関わりのある出来事とは思えないのではないでしょうか。

 自分の力ではどうすることもできないことや、自分の予想をはるかに超えることが次々と起きたとき、やはり、私たちはこの時の弟子たちのようにうろたえてしまう。それが現実ではないでしょうか。そして、眠っていて、何もしてくださらないように思えるイエス様に、「なんとかしてください。助けてください」と必死に訴える。それでよいのではないでしょうか。そして、イエス様から「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と問いかけられ、この問いかけに真剣に向き合うことが求められているのです。

 弟子たちは驚き、恐れます。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」(25節)。罪のない神様の御子が、人となられたのがイエス様です。ですから、風や水でさえも従わせることができます。イエス様は自然も病も死でさえも支配し、ご自分に従わせることがおできになります。そのイエス様が、神様に背いた私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、3日目に死から復活されたことにより、神様はイエス様を救い主と信じ受け入れる人の罪をすべて赦し、神様の子どもとして回復し、神様の民の一人としてくださいます。イエス様を信じていても、様々な問題や悩みを私たちは経験します。それは、弟子たちと同じように、自分の信仰がどこにあるのかを問いかけられる時となるのではないでしょうか。そして、イエス様に対して、私たちも弟子たちのように「いったいこの方はどういう方なのだろう」と驚きや新たな発見を深められていくことが、イエス様とのつながりを深められていく道なのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 8月23日はフリーメソジスト教会の誕生日です。黒船来航の7年後、1860年、当時の米国メソジスト監督教会がもともとのメソジスト教会が大切にしていた「全き聖化」「きよめ」を強調せず、教会の座席有料制度などを行なっていたのを改革しようとして除名されたB.T.ロバーツたちが、その年の8月23日に本来のメソジストに帰ろうと設立したのがフリーメソジスト教会です。メソジストの最初の指導者ジョン・ウェスレーの地上での最後のことばの一つは「最もよいことは神が私たちと共におられることだ」だそうです。イエス様が自分と共におられることを、今週も覚えて過ごしましょう。

(記:牧師 小暮智久)