2022年5月22日 礼拝説教 「光をともされて」

聖書: ルカの福音書 8章 16~21節

Ⅰ.はじめに

 父が3月23日に召され、父が生前『聖書』のIコリント13:13から「信 望 愛」と刻んで作った墓に5月31日に納骨しようと、母とも相談して親族に知らせた矢先、5月7日にその母が召され、先週その葬儀が終わりました。皆さんのお祈りを心から感謝します。納骨式は予定通りですが、まさか母の納骨も同時になるとは思いもよりませんでしたし、母にとっても予定外だったでしょう。両親とも急なお召しで、まだ受け止めきれず、あっけに取られているような感じですので、つづいてお祈りいただけましたら幸いです。

 この教会の礼拝では2017年5月から「ルカの福音書」を少しずつ聴き、今日は前回2月27日の続きの所です。「光」がこの所のテーマの一つと思いましたので、今日の讃美歌は「光」が歌詞にあるものを選び、「なぐさめ」ということばにも心が惹かれ、最初の2つの讃美歌は、その両方が入っているものにしました。考えてみれば、「光」は安らぎや安心をもたらし、なぐさめともなり得るのかもしれません。みことばを注意して聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.光は何のため?(ルカの福音書 8章16~18節)

 「明かりをつけてから」(16節)とイエス様は言われました。これは、今から約2000年前の中東、ユダヤ地方での「明かり」です。蛍光灯や電球の「明かり」ではありません。少し深さのあるお皿のようなものに油を入れ、そこに油を吸いやすく燃えやすい芯を浸して火をつける「ランプ」の「明かり」です。考古学調査の発掘でも、当時の「ランプ」がたくさん見つかっています。「ランプ」の光は何のためか?16節をお読みします。その光を何かで隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。この「寝台」というのは当時のユダヤの食事の習慣で左側を下にして横たわる長いすのことだそうで、「ランプ」を長いすの下に置く人はおらず、食卓の上に置いて食事をするのが普通だったのです。

 この「光」とは、イエス様のことで、イエス様のことばを聞いて受け入れると、私たちひとりひとりにも「光」がともされるということが言われているようです。その「光」は何のために来たのか?人々から隠して見えないようにするためではなく、人々を照らすために来たのです。子どものころ、通い始めた「日曜学校」(今の教会学校)で「私は小さい火」という歌をデシェーザー宣教師の奥さんから習いました。「私は小さい火 光りましょう」と歌いながら、ふりつけがあるのですが、その何番かに「隠れましょ いいえ 光りましょう」と歌詞があります。まさにそういうことではないでしょうか。

 「光」であるイエス様に照らされて、あらわにされないものはありません。17節をお読みします。今の日本でイエス様という「光」はそれほど目立たず、知られていないように思えます。しかし、この「光」であるイエス様は知られていき、明らかにされていきます。

 ただし、このイエス様によって「光」をともされた人、つまり、イエス様を信じ、その「光」をともされた人は、その「光」を保つために注意する必要があります。吹きつける風がその「光」を消してしまうかもしれません。たとえば、それは周囲の人の心無いことばに傷つき、教会を離れてしまうことなどです。あるいは何かに気を取られて水をかけて「光」を消してしまうかもしれない。たとえば、自分の好きな遊びやよくない習慣に気を取られ、イエス様を自分から締め出してしまうことなどです。18節をお読みします。イエス様を受け入れ、「光」をともされた私たちは、その「光」を保つために、みことばの「聞き方」、『聖書』の読み方に注意する必要があります。それは、すぐ前の「種まきのたとえ話」でも語られたことです。みことばを、他人事とせず、自分の生活に結び付け、みことばを行ない、みことばを自分のものとすることです(Iテサロニケ2:13、へブル4:2を参照)。そうでないと、持っていると思っている「光」まで取り上げられてしまう。洗礼を受けたあと、教会から離れてしまう理由の一つは、みことばの聞き方に注意していなかったからではないでしょうか。生きている間なら、立ち返るチャンスはいつでもあります。

2.光をともされた人々(ルカの福音書 8章19~21節)

 「光」であるイエス様から「光」を分け与えられ、「光」をともされた人は、イエス様とどんな間柄となったのでしょうか?19節をお読みします。「母と兄弟たち」は、イエス様と一番近い間柄の人々と言えるでしょう。母マリアは有名ですね。では、イエス様の兄弟とはどんな人か。マルコ6:3をお読みします。処女であったマリアから聖霊によってイエス様が生まれ、その後、マリアとヨセフの間に4人の弟と妹たちが生まれたのでした。イエス様と一番近い関係にある母と兄弟たちが、大勢の人々に囲まれているイエス様に近づけない様子を19節はしるしています。一番近い間柄のはずなのに、近づけない。近づける立場と権利があるはずなのに、近づけない。それで、ある人々が気を利かせたのでしょう。20節をお読みします。これでふつうは会えるはずです。一番近い身内、家族ですから。

 しかし、イエス様はこの時、ご自分の最も近しい人々を一つの実例として取り上げ、ご自分が「光」をともした人々との間柄を示そうとされました。21節をお読みします。母マリアや兄弟たちが聞いたら冷たく感じるかもしれません。しかし、イエス様にとって一番近しい間柄の人々とは、系図上でつながりのある親や兄弟、同じ民族の人々ではなく、「神のことばを聞いて行う人たち」だと言うのです。これは衝撃的なことばではないでしょうか。イエス様にとって一番近い間柄の人と言えば、母マリアであり、共に育った兄弟であり、神様に選ばれ、「旧約聖書」の「律法」を特別に与えられたイスラエル民族、ユダヤ人であると思われがちです。しかし、イエス様は、そこから遠い異邦人であっても、今の日本に住む私たちも、『聖書』や教会とは無縁に生きてきた人であっても、「神のことばを聞いて行う人」ならば、「わたしの母、わたしの兄弟たち」、すなわち、自分の家族だと言ってくださるのです。イエス様を信じ、その「光」をともされた人のことを、イエス様は一番近しい身内、家族だと言われます。家族ですから、いつも気にかけてくださり、深い絆で結ばれている間柄です。困った時、悲しい時はその気持ちを分け合い、助けてくれる。嬉しい時は共に喜んでくれる。家族ですから。イエス様に「光」をともされた人々は「神の家族」です。「光」が広がるように「神の家族」も広がっていきます。

Ⅲ.むすび

 自己中心で、神様と疎遠になっていた私たちのために、約2000年前にイエス様は来られ、私たちの罪を背負って十字架で死なれ、3日目に復活されました。私たちはこのイエス様を救い主と受け入れた時、イエス様の「光」をともされました。その「光」を保ち輝かせるために、みことばの「聞き方」、読み方に注意しましょう。イエス様の家族とされた私たちへの「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というみことばを行うため、具体的に、同じ教会の人に関心を向け、あいさつをし、近況を尋ね合いましょう。

(記:牧師 小暮智久)