2022年3月13日 礼拝説教 「何をしてほしいのか」

聖書: マルコの福音書 10章 46~52節

Ⅰ.はじめに

 湯里の町をほぼ毎日散歩しています。知り合いが増え、あいさつしてくださる方も増え、うれしく思います。時々、親しい方と久しぶりに思いがけなくバッタリと出会うことがあります。ああいう時の出会い方というのは不思議ですね。もし、途中で買い物をしていなかったら、タイミングがずれて会えなかったなあと思うのは、先日のかつて小学校のPTA役員を共にした方との出会いです。コロナ禍でのお仕事の様子などを路上で聞かせていただき、大変な中でがんばっておられるなあと自分の気持ちが温かくなるのを感じました。

 世界のキリスト教会は今、受難節(レント)という、十字架の苦しみに向かうイエス様を想いつつ過ごすときを共に過ごしています。今日は、十字架に向かわれる途上のイエス様とある人との出会いの場面を、今の私たちとどんな関係があるのか、先ほど読まれた『聖書』の箇所から共に思いめぐらしましょう。

Ⅱ.みことば

1.イエス様との出会いと私たち(マルコの福音書 10章46~48節)

 キリスト教というとアメリカやヨーロッパのものだとイメージが強いかと思いますが、その中心であるイエス・キリストというお方の出身は、ヨーロッパではなく、アジアの西の端です。時は今から約2000年前、所は死海という湖の少し北にあるエリコという町を出た所での出来事です。そこでバルティマイという目の見えない人が、人々から施しを受けて生活していました(46節)。この人は以前から「キリスト」と言われる救い主が、古代イスラエルのダビデ王の子孫として生まれると知っていて、期待していたようです。そして、最近人々がうわさしている「ナザレのイエス」、ナザレという村出身のイエス様というお方に関心を持っていました。このイエス様が病気の人を治してくださったり、わずかなパンで大ぜいの人を満腹にしたりしたという奇跡などの評判を聞き、「このイエス様がキリストではないか」と思ったからです。目が見えなかった彼は、人々の話声などには敏感だったことでしょう。そのイエス様がついにすぐ近くにやって来たと耳にしたのです。「彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて」(47節)とあります。バルティマイはどうしたか?「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めます(47節)。彼は、『聖書』が約束している通りにキリスト(救い主)はダビデの子として生まれると考えていましたから、「ダビデの子のイエス様」とは「キリストであるイエス様」という意味です。「あわれんでください」とは無力な自分を心に留めてくださいと信頼してすがる求めです。そこにいた人々は彼を黙らせようとしましたが、彼はあきらめず、ますます叫び続けたのでした。

 今の私たちにとって、イエス様との出会いはどのようなものでしょうか?自分の生きている意味や目的が分からない時、度重なる苦しみや困難が押し寄せて来る時、イエス様は遠くにおられるのではなく、実はすぐ近くにおられ、私たちも呼ぶことができるのです。

2.イエス様の招きと私たちの応答(マルコの福音書 10章49~52節)

 「イエスは立ち止まって」(49節)とあります。人々がどんなに妨げようとしても、イエス様は私たちの求めに、ことばにならないようなうめきに、立ち止まってくださいます。そして、どうされたか?49節をお読みします。イエス様はバルティマイを招き、先ほどまでは叫ぶのを黙らせようとしていた人々が、そのイエス様の招きを伝えたのです。今の私たちにとっては、たとえば、誰かから『聖書』をもらうとか、家族がクリスチャンだったとか、キリスト教系の幼稚園や学校に行っていたとか、教会のクリスマスにさそわれたとかということなどが、イエス様の招きが自分に伝えられたということではないでしょうか。

 このイエス様の招きに対し、この人はどう応答したでしょうか?50節をお読みします。「上着を脱ぎ捨て」というのは印象的です。目撃者でなければ、こうは書けないでしょう。

 イエス様に近づくために、なぜ上着を脱いだのかと違和感があります。イエス様の所へ急ぐのに、目の見えない彼にとって当時のそでの長い上着はじゃまだったからではないかという推測があります。また、彼にとって上着は、地面に広げて人々の施しを受けるために必要な物で、もうその上着に依存しなくてもよいほどにイエス様に信頼したのではないかという理解もあります。その両方かもしれません。「躍り上がって」というのも心に残る表現です。喜びにあふれ、生き生きと、イエス様のもとへ急ぐ姿が目に浮かびます。

 そのバルティマイに、イエス様はどうされたか?51節をお読みします。彼がしてほしいことを、イエス様にはわかっていたはずです。なのに、なぜ、「何をしてほしいのですか」とあえて問いかけたのでしょうか?それは、この人の尊厳を認め、彼が自分から、自分の願いとイエス様への信頼を表わせるようにするためではないでしょうか。イエス様は、今の私たちにもこう尋ねます。「わたしに何をしてほしいのですか」。それは、あなたの尊厳を認め、尊い存在として尊重しているからです。そして、あなたの自由な意志と、あなた自身のことばで、イエス様に対する信仰を表現できるように、問いかけてくださるのです。

 彼は言います。「先生、目が見えるようにしてください」(51節)。イエス様はどうされたか?52節を読みましょう。イエス様のこのことばによって、彼は見えるようになりました。「あなたの信仰があなたを救いました」(51節)というイエス様のみことばは、彼の信仰に力があり、彼の信仰の深さが目を治したかのように誤解されがちですが、目を見えるようにした力はイエス様の力です。そのイエス様の力が「あなたの信仰」によって受け取られ、「あなたを救いました」、つまり、信仰はイエス様の力を受け取る「開かれた手」なのです。バルティマイはその後、どうしたか?彼は目が見えるようになって、イエス様から去り、自分の力で、自分の思い通りに、自己実現のために歩んで行ったのではありません。「すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った」(52節)。彼は目が見えるようになっただけでなく、神様の子どもとされ、「神の国」の国民とされ、イエス様について行ったのです。イエス様を救い主と信じるということは、イエス様に従うこと、同じ神の国の民として、教会の人々とのつながりを大切にして共に歩むことです。

Ⅲ.むすび

 バルティマイがついて行ったイエス様が進む道の先には、十字架がありました。それは、神様によって良いものとして造られた私たちが、神様に背き、離れてしまった罪の身代わりとなってイエス様が苦しまれ、死なれた十字架です。イエス様が十字架で死なれ、3日目に復活されたのは自分のためだと信じ、イエス様を救い主として迎えましょう。その時、私たちはすべての背きを赦され、神様とのつながりを回復され、神の国の国民とされるのです。自分のためのイエス様というだけでなく、イエス様のために生きる自分とされ、神の国の国民として過ごす喜びを深められていく日々が始まります。

(記:牧師 小暮智久)