2022年2月13日 礼拝説教「何を選ぶか?」

聖書: ルカの福音書 10章38~42節

Ⅰ.はじめに

 ファミレスなどで何を食べるか選ぶ時、いろいろと考えて迷う方ですか?それとも早く選ぶ方ですか?私たちは毎日、いろいろなものを選んでいます。服はどれにするか、昼には何を食べるか、午後は何をするか、などです。選んだあとで、ほかの人が選んだものを見て「あ、あっちの方がおいしそうだなあ」と思って、失敗したかなあとか、不満に思うこともあるでしょうか?そんな時はどうしたらよいのでしょうか?毎週日曜日朝9時からの教会学校では今日から、「イエスに出会った人々」というテーマで、「イエス様が私たちに期待しておられることを知る」ということが目標となっています。『聖書』には、いろいろなものを選ぶ場面や選んだあとで不満に思う人が出てきます。ともにお聴きしましょう。

Ⅱ.みことば

1.選んだあとでの不満(ルカの福音書 10章38~40節)

 先ほど読まれた『聖書』の所には、2000年ほど前の西アジア、ユダヤ地方でのできごとが書かれています。「マルタという女の人」(38節)が選んだことは何か?それは、ある村に来られたイエス様を、「家に迎え入れた」(38節)ということです。この書き方は、前からイエス様のことを知っていたマルタさんが、近くに来られたイエス様を自分の家に迎え入れることを選んだということを、示しているように思えます。

 あなたは、いかがですか?イエス様を迎え入れたことがありますか?イエス様を救い主として信じるということは、自分の生活にイエス様を迎え入れることです。あなたがイエス様を信じたのなら、あなたはイエス様を迎え入れているのです。

 そのあと、どうなったのでしょうか?このマルタさんにはマリアという姉妹(たぶん妹)がいました。イエス様を家に迎え入れたあと、妹が選んだことは、イエス様のことばに聞くことでした(39節)。イエス様を迎え入れたあと、姉のマルタさんが選んだのは、「いろいろなもてなし」(40節)でした。この「もてなし」ということばは「奉仕」という意味もあります。これも大事ですね。マリアさんは「みことば」を聞くこと(これも、もてなし(奉仕)と言えるでしょう)、マルタさんは「もてなし」をする奉仕を選んだのです。私たちには、選ぶ自由があります。選んだのは自分ですから自分の責任です。マルタさんは「もてなし」のために動き始めますが、「心が落ち着かず」イライラしてきたようです。そんな時、あなたならどうするか?少し休むとか、この時なら妹に言うとか、いろいろ選べるでしょう。マルタさんが選んだのは、お客さんとして迎えたイエス様に話すことでした。40節を読みます。妹と比べて自分だけが忙しいのを「何ともお思いにならないのですか」(40節)と、イエス様に文句を言うことをマルタさんは選んだのでした。私たちも、自分が選んだあとで不満を感じたら、それもイエス様にお話ししたらよいのではないでしょうか。

2.必要なことを選ぶには(ルカの福音書 10章41~42節)

 私が『聖書』を初めて開いたのは10歳ごろです。それ以来、『聖書』には、模範になる人よりも欠点や失敗のある自分と似ている人が書かれているなあと感じてホッとします。自分もマルタさんのように忙しいとイライラして文句を言ってしまいがちです。忙しくすることは時に必要です。問題は「心が落ち着かず」、愛が心からしめ出されてしまったことではないでしょうか。でも、不満をイエス様に言ったからこそ、このみことばをいただけたのはよかったのではないかと私は思います。41節を読みます。イエス様は、マルタさんを責めてはいません。むしろ、「いろいろなことを思い煩って」(41節)と彼女の状態をわかっていてくださいます。その上で大切なことを言われました。42節をお読みします。「必要なことは一つだけ」(42節)なのです。それは何か?「マリアはその良いほうを選びました」(42節)と言っておられますから、イエス様のことばに聞くことがそれです。どんな人であっても、イエス様のことばに聞くことが「必要なこと」であり、「それが彼女から取り上げられることはありません」(42節)と言われた通り、それを選ぶなら、生きている間も死んだのちも、その人にはイエス様のことばを聞ける親しい交わりがずっと与えらます。

 この「必要なこと」を私たちが選ぶには、どうしたらよいか?私たちの毎日には必ずすると決めていることがあります。たとえば、顔を洗う、1日3回食事をするなどです。それらはもう習慣ですが、親に教えられたり、自分で選んだりして生活に取り入れたことでもあります。『聖書』を読むことも、日曜日には礼拝することも、「するか、しないか」ではなく、「これは必ずしよう」と生活の一部にすることを選んではどうでしょうか。私の場合、朝起きたら、顔を洗い、朝食を食べ、歯を磨き、机の前に座り、「神様、今日も生かしていてくださり感謝します。みことばをください」とお祈りし、「週報」の「今日のみことば」の『聖書』の所を開いて声を出して読みます。そのあと「イエス様はどんなお方だろうか?」と少し考えてみます。たとえば今日の所では、「マルタ、マルタ」とイエス様が名前を2回も呼ばれたことが心に留まりました。イエス様は時に、名前を2回呼ばれることがあります(ルカの福音書では「シモン、シモン」(22:31)など)。名前を2回呼ぶのは、そこに深い気持ちが込められているのかもしれません。そのあと、お祈りを始め、みことばで気がついたことを感謝し、教会員の方々など、名前を挙げてお祈りします。私の場合、みことばとお祈りの時間は20分ぐらいです。朝は忙しいので夜の方がいいという人もおられるでしょう。とにかく、毎日のどこか続けやすい時間に取り入れると決めることが、「必要なこと」を選ぶということではないでしょうか。そして、『聖書』を読めなかった時や「礼拝」に行けなかった時にも自分を責めず、イエス様に「どうしたらいいでしょうか」とお祈りしたらいいのです。そして、また『聖書』を読むことと「礼拝」を続けるのです。

Ⅲ.むすび

 アモス8:11をお読みします。食べ物は豊かでも、「主のことばを聞くことの飢饉」が来ると言われています。その日が来る前に、『聖書』を自由に読める間に、「今日は『聖書』を読むか、読まないか」と考えるのではなく、「今日は『聖書』のどこを読もうか」と考えましょう。一日の中で『聖書』を開く時間を決めておいて、少なくとも「週報」の「今日のみことば」の所を読みましょう。「礼拝」を自由にできる間に、「今日の日曜日は礼拝をするか、しないか」と考えるのではなく、「今日は礼拝で何を感謝し、何を祈り求めようか」と考えましょう。イエス様を愛し、そのみことばに聞くことを選ぶなら、その恵みはあなたのもの、それがあなたから取り上げられることはないのです。

(記:牧師 小暮智久)