2022年1月30日 礼拝説教「万軍の主」

聖書: サムエル記 第1 1章1~3節

Ⅰ.はじめに

 「いま」という時代は、以前から「先行きが見えない」と言われてきましたが、新型コロナウイルスの感染が始まってから、先行きがますます不透明となり、深い霧の中を足元だけを見て歩く感じではないでしょうか。このような時は目の前の問題にとらわれ、物の考え方が狭くなりがちです。このような時だからこそ、イエス様を救い主と信じ、「神の民」とされた私たちは、目の前のことだけでなく、広い視野をもって、「神の民」の「これまで」(過去の歴史)と、「これから」(将来の見通し)とを、しっかりと見つめる必要があるのではないでしょうか。『百万人の福音』という月刊誌に、神の民の「これまで」(①創造、②堕落と再出発、③イスラエル、④イエス、⑤教会(今の私たちはこの時代の途上にいます))と「これから」(⑥新創造(再臨、新天新地))の大まかな流れをわかりやすくイラストにしたものがありましたので、今日お配りしました。今の私たちがどこにいるかを確かめ、この先の希望を思い、過去についてはイスラエルの王国やその先祖アブラハムともつながっていることを確認しましょう。

 私たちの教会の礼拝では、「創世記」(このイラストでは「創造」「堕落と再出発」「イスラエル」の最初の部分を扱っている書物)をお聴きしてきて昨年末で終わりました。次は「旧約聖書」ではどこからみことばを取り次ぎましょうかと主に祈り、考え、「サムエル記」に導かれました。この教会に私が遣わされてから「サムエル記」などの歴史書は連続では取り上げたことがないことや、神の民は神が王として導かれる「神の国」であるはずなのに「サムエル記」は民が王を立て「王の国」になりその中で経験する人間的な問題を記し、それが今の私たちの現実とも似ており、人間的な問題の中で神は私たちをどう導かれるかを共に聴きたいというのもその理由です。今日はその最初の部分から、神様の語りかけをお聴きしましょう。

Ⅱ.みことば

1.エルカナとその家族(サムエル記 第1 1章1~2節)

 この「サムエル記」は、天地と人の創造、罪の始まり、アブラハムとその子孫イスラエルのエジプト移住、エジプト脱出と神様の約束の土地への定住以降のことを、時代的には紀元前1070年頃以降のことを記しています。日本では縄文時代の後期あたりでしょうか。この「サムエル記1,2」と「列王記1,2」は元々「王国の書1,2,3,4」と呼ばれ、単なる歴史書ではなく預言書でもあります。歴史そのものが神様の預言となっている書物なのです。

 1節をお読みします。一人の人が紹介されます。名は「エルカナ」。「エル」は「神」、「カナ」は「造る」を意味し「神は創造した」という意味です。出身地はエフライムというヨセフの子孫の相続地、西アジアの死海の西でエルサレムの少し北の山地です。『聖書』は先祖や系図を大事にし、この人の先祖は4代前まで記されています。この人が預言者サムエルの父になり、Ⅰ歴代誌6:34~38にはサムエルの先祖はレビだという系図があります。

 2節は、このエルカナの家族を記しています。彼には二人の妻がありました。当時の中東では子どもがその家を継ぐ者として重要視され、そのために複数の妻をもつことが行なわれ、その現実がここにあります。しかし、これは、『聖書』が複数の妻をもつことを認めていることを意味してはいません。『聖書』は「結婚」そのものの始まりを「創世記」に記し、一人の男性と一人の女性による結婚が本来のものだと示しています。そうでない結婚の場合にはなおさら、家族が複雑な問題と痛みを抱えることになる現実を、今日の続きの箇所は示しています。妻の名はハンナ(「恵み」「好意」という意味)、もう一人の妻はペニンナで、ペニンナには子があり、ハンナには子がありませんでした。

2.エルカナ一家の礼拝(サムエル記 第1 1章3節)

 3節を読みましょう。エルカナ一家が毎年していたことは礼拝です。場所は「シロ」という所。神殿が建てられる前の時代で、神様と会うための「会見の幕屋」が建てられ(ヨシュア18:1)、「神の宮」(士師記18:31)があったのがシロという所です。当時はどんな礼拝だったのでしょうか?「いけにえを献げる」(3節)ことで、神様を拝み、礼を尽くしたのです。

 私たちは「礼拝」をどう考えているでしょうか?「礼拝を守る」という言い方があります。イエス様の復活を記念する「主の日」と呼ばれる日曜日を、他の曜日と区別して「主のもの」として確保し守るという意味で「主の日を守る」とは言いますが「礼拝を守る」という表現には違和感があります。「礼拝を受ける」という表現を耳にすることもあります。「礼拝の恵みを受ける」と言う場合の「恵み」が省略されているのかもしれませんが、「礼拝を受ける」のは神様だけですから、やはり「礼拝をささげる」と言うべきでしょう。

 では、「礼拝」で私たちは神様に何をささげるか?当時は自分たちの罪の身代わりとして傷のない子羊などをささげました。今は動物をささげません。なぜか?今から約2000年前、イエス様が「罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)として、私たちひとりひとりの身代わりに十字架でご自身をささげ、死んでくださり、罪と滅びからの救いが成し遂げられたからです。イエス様は死んで葬られ、3日目に墓から復活され、弟子たちと40日間共に過ごし天に昇られました。このイエス様を自分の救い主として信じ迎え入れた人は、すべての罪を赦され、神様の子どもとされ、神様の民のひとりとされています。神の民とされた私たちは礼拝で神様に何をささげるか。それは、救われて神の民とされた「感謝」と、神の民とされた「自分自身」です。「礼拝」のプログラムの「奉献」とはその時です。それは、感謝と献身の時であり、そのしるしとして大切なお金を神様にささげるのです。

 エルカナ一家が礼拝したのはどなたでしょうか?「万軍の主」(3節)とあります。「万軍」とは天の星とか、天使の軍勢とか、イスラエルの軍隊などの意味があるようです。「万軍の主」とはすべてのものを造り、支配しておられ、何でもできるお方ということです。

Ⅲ.むすび

 エルカナ、「神は造られた」と親に名づけられたこの人は、神を信じていながら、現実には二人の妻をもつという問題を抱えて生活していました。しかし、そのような現実の中で、万軍の主を礼拝していたことに希望が見えるのではないでしょうか。万軍の主が、この人と特にその妻ハンナに働きかけようとしているみわざを、私たちはこれから見ていくことになります。今の私たちも混沌とした現実の中で、イエス様を信じて神の民とされたことで見つめることができるようにされた「万軍の主」を仰いで、その助け、その導きをいただいて、今週の一日一日を過ごさせていただこうではありませんか。

(記:牧師 小暮智久)