2021年12月19日 礼拝説教「クリスマスの喜び」

聖書: マタイの福音書 2章1~12節

Ⅰ.はじめに

 クリスマスの喜びとは、何でしょうか?クリスマスツリーでしょうか。子どものころ、家の中の小さなツリーに赤や緑の光が5つか6つ、ピカピカするのを見てワクワクしました。それともプレゼントでしょうか。私が育った家は木を割ったまきでわかすお風呂で、煙突がありましたが細いので、あそこから入れるのか心配でしたが、サンタクロースが来るのが楽しみでした。クリスマスが何の日かを知ったのは小学3年生のころ、家のとなりの教会学校に行ってからです。「クリスマスは救い主イエス様が生まれた日」と知りました。のちに、「クリスマス」とは、「キリスト」と「マス」とで、できたことばだと聞きました。「キリスト」とは救い主、「マス」とはミサ、礼拝という意味です。つまり、救い主を礼拝する日という意味なのです。クリスマスの中心はキリスト、救い主です。救い主の誕生を喜ぶとは、どういうことなのでしょうか?さきほどの『聖書』のことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.救い主の誕生と人々の態度(マタイの福音書 2章1~8節)

 あと10日ほどで2021年が終わろうとしています。この2021という数字は、キリスト(救い主)が生まれてから何年かという数え方です。ですから、救い主の誕生は約2021年前ということになります。その時、人々はどんな態度で救い主を迎えたのでしょうか?
 神様のことばである『聖書』はどう言っているでしょうか。大きく分けると、「救い主の誕生を喜んだ人」と「じゃまだと思った人」がいたことがわかります。
 「救い主の誕生を喜んだ人」とは、遠い東の国からやってきた博士たちです(1節)。2節を読みましょう。彼らは、救い主を「ユダヤ人の王」と呼び、「その方の星」、特別な星を見たので、それだけを頼りにやって来ました。昔自分たちの国に住んでいたユダヤ人が『聖書』にすばらしい救い主がユダヤに生まれるという約束があると教えてくれたのを覚えていたからです。1000キロ以上の旅、何か月もかかったでしょう。その間の食べ物や旅館代にお金がたくさんかかったでしょう。どんなに時間とお金をかけても惜しくないほど、この人たちは救い主の誕生を喜び、そのお方を「礼拝するために」(2節)やって来たのでした。
 その正反対が「救い主をじゃまだと思った人」です。それは、ユダヤの王様ヘロデという人です。救い主が自分の国に生まれたのに知りませんでした。遠い国から来た博士たちに言われて初めて知り、生まれた所がわかると、博士たちに「見つけたら知らせてもらいたい」(8節)とお願いします。なぜか?それは、「じゃまだから殺そう」と考えたからです。
 私たちは、どちらの人に似ているでしょうか?救い主の誕生を喜ぶ人になりましょう。

2.救い主の誕生を喜ぶ人は(マタイの福音書 2章9~12節)

 救い主の誕生を喜ぶ人は、その喜びをどのようにあらわすでしょうか?
 その人は、救い主のいる所まで行きます。9節を読みましょう。博士たちは救い主が生まれた所を知っただけでなく、実際にそこへ行ったのです。10節を読みましょう。この喜びは、ついに救い主に会えるという喜びでしょう。私たちも『聖書』を読んでただ知るだけでなく、本当にそうかどうかを自分で確かめるとき、この喜びを味わえるのです。
 その人は、救い主を見てひれ伏します。11節を読みましょう。この時、イエス様は生まれた時のまま飼い葉おけの中にではなく、「家」におられました。2歳ぐらいだったようです。博士たちが準備して旅をしてたどり着くまでに、そのくらい時間がかかったでしょう。幼子イエス様を見てひれ伏し礼拝することが、彼らの喜びでした。私たちも日曜日の礼拝で、何かをしながらではなく、心も身体もイエス様にまっすぐに向けて、ひれ伏すような態度で礼拝することは、私たちの喜びではないでしょうか。
 その人は、救い主に贈り物をささげます。博士たちは宝の箱に入れて大切に運んで来た高い品物を、幼子に贈り物としてささげました(11節)。贈り物というのは誰かに強制されるものではなく、お礼とかお祝いとかの気持ちを表わすために、自分から進んでするものです。この救い主は、神様がどれだけ私たちひとりひとりを大切に愛してくださっているかを示す神様からの贈り物です。この救い主はやがて大人になり、十字架で死んでくださいました。それは、私たちが神様から離れ、自分の好きなようにしたいから神様なんてじゃまだとする「罪」の心の身代わりだったのです。イエス様は3日目に復活し、今も生きておられます。礼拝の中の「奉献(ほうけん)」とは、イエス様がいのちをささげてくださったことへの感謝として、自分をささげ、そのしるしとして献金をささげるのです。

 その人は、救い主によって生活が、生き方が変えられていきます。12節を読みましょう。王様であるヘロデのことばよりも、夢で示された神様のことばに従い、別の道から自分の国へ帰って行ったのでした。私たちも、救い主の誕生を喜び、礼拝するなら、その生活は神様に喜ばれるように、『聖書』のことばに喜んで従うように変えられていくはずです。

Ⅲ.むすび

 クリスマスの喜びは、イエス様を救い主として迎え、心から礼拝するところにあります。せっかく西アジアのユダヤの国に生まれたのに、その国の人々は喜ばず、むしろ王様は救い主をじゃまだと思い、殺そうとしました。反対に、東からの博士たちは、ユダヤから遠く離れていたのに長い旅をして救い主に会って喜び、心から礼拝したのでした。とても対照的ですね。あなたは今、どちらですか?私がイエス様を救い主と信じ受け入れたのは10歳の時、洗礼を受けたのは小学6年生の春。私は2月生まれなので、今日洗礼を受ける辻本柚貴君と同じ11歳の時です。「イエス様が十字架で死んでくださったのは自分のため、イエス様を信じて神様の子どもとされ、天国に行ける」ということ以外は何を信じているか説明できませんでした。私は母がクリスチャンの「片クリ子」で,礼拝にだけはずっと行き続け、高校生の時に同じ年代のクリスチャンの交わりの中で育てられたと感じています。

 イエス様の救いとは、何でも自分の好きなようにしたいから神様なんてじゃまだと思う生き方からの救いです。自分の好きなようにするのは自由なようで、思い通りにならないと不満やさびしさにとらわれる不自由さがあります。イエス様を救い主と信じると、神様が王である「神の国」の国民とされ、生きている間も死んだのちも「神の国」での自由を満喫できます。イエス様を救い主と信じ、このお方を礼拝するクリスマスの喜びをともにしましょう。

(記:牧師 小暮智久)